トップが語る、「いま、伝えたいこと」
幼いころ、亡き母によくNHKのお茶の番組を観せられたものでした。母は、お茶とお花の先生の資格を持っていたようで、私によく自慢していました。先生のお姿が映ると、「この方が千宗室先生やねんで」と母はなんだか鼻が高そうでした。そして、テレビを観ながら、「これはな、こんなふうにやるんやで……」といちいち先生のあとを追って、説明する母。なんとなく窮屈で、しかもなぜか正座しなければいけなかったようで、それがとってもいやでした。
しかしながら、いまとなっては、実はお茶の世界は、ぼくの興味、関心の対象となっています。なんとなく、袱紗(ふくさ)の使い方や指先の動きなど、覚えているところがあるんですよね……。これも、母のおかげと言えるのでしょうか。
私が、とても関心をもったのは、お点前の方法についてももちろんなのですが、現在の茶道の基礎を築いたとされる千利休のことです。なぜなら、そうだとは知らず、茶道から発したとされる名言や教えがとてつもなく多いからです。そこで、今回は、千利休の残した言葉について書かせていただこうと思いました。
千利休は、茶の湯を芸事や社交の場という枠を超え、人の生き方そのものを映し出す精神文化へと高めた人物として、「茶聖」と称されています。利休自身は体系だった著作を残していません。でも、その思想や姿勢は、弟子たちの記録や伝記、そして数々の名言として現代にまで受け継がれてきています。それらを辿っていくと、利休が目指していたのは単なる作法の完成ではなく、「人はどう生きるべきか」という根源的な問いを、茶の湯を通して探究し続ける姿勢そのものであったことが浮かび上がってきます。
利休は、当時の主流であった豪華さや格式を誇る茶の湯とは一線を画し、簡素で静かな世界の中に深い意味を見いだしました。その姿勢は、弟子たちとのやりとりの中にも色濃く表れています。あるとき弟子が、「どのようにすればよい茶の湯ができるのでしょうか?」と尋ねた際、利休は「夏は涼しく、冬は暖かに。炭は湯の沸くように置き、花は野にあるように生けよ」と答えたと伝えられています。この言葉は一見すると当たり前のことのようですが、そこには利休の思想が凝縮されているんですね。奇をてらうのではなく、相手の立場に立ち、自然の理にかなった心配りを尽くすことこそが、本当のもてなしであるという考え方です。これは、現在の私たちにも言えることですね。
この考えは、後に「利休七則」としてまとめられる教えにも通じています。たとえば「先ず客の身になって亭主せよ」という心得は、単なる礼儀作法ではなく、人と向き合う際の基本姿勢を示しています。利休は弟子たちに対しても、形だけをなぞることを厳しく戒めました。道具の配置や動作を完璧に再現しても、そこに相手を思う心がなければ意味がない。そのため利休は、弟子が型にとらわれすぎていると感じたときには、あえて曖昧な言い方で答え、考えさせることもあったといいます。教えすぎず、与えすぎず、自ら気づくことを促す姿勢は、彼の教育観そのものでした。
利休の思想を語る上で欠かせないのが、「一期一会」という言葉です。そうなんです!「一期一会」って、お茶の世界から生まれた言葉なんです。この言葉は、弟子の山上宗二が記した「山上宗二記」によって後世に伝えられました。茶会は一生に一度の出会いであるという覚悟をもって臨むべきだ、という利休の言葉は、弟子たちにとっても非常に重いものでした。同じ客、同じ亭主であっても、その日の天候、心境、場の空気は二度と同じにはなりません。だからこそ、その一瞬に全てを込める。この思想は、茶の湯の場を超えて、人と人との関係性そのものを見つめ直す視点を与えてくれます。
また、利休は学びの姿勢として「守破離」の重要性を体現した人物でもあります。弟子の中には、早く独自性を出そうとする者もいましたが、利休はそうした態度を戒めました。まずは徹底的に型を守り、先人の知恵を身体に染み込ませること。その上で初めて、型を破る意味が生まれる。利休自身が、武野紹鷗ら先達の教えを深く学び尽くしたからこそ、「侘び茶」という新たな境地に至ったように、基礎なき革新は空虚であるという認識が、彼の中には強くありました。
利休の名言の中には、人としての覚悟を感じさせるものも少なくありません。「頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある」という言葉は、その象徴的な例です。豊臣秀吉に仕え、権力の中枢に身を置きながらも、利休は自らの美意識と茶の湯の本質を曲げることはありませんでした。金の茶室に代表されるような華美な趣向を好む秀吉と、簡素と侘びを尊ぶ利休の間には、次第に埋めがたい溝が生まれていきます。それでも利休は、自分が信じるものを守るために妥協しませんでした。
この姿勢は、弟子たちにも強い影響を与えました。利休のもとで学んだ茶人たちは、単に技法を受け継いだのではなく、何を大切に生きるのかという価値観そのものを学んだのです。利休が切腹という最期を迎えた後も、その精神が茶道の中で生き続けたのは、彼が言葉だけでなく、生き方そのもので教えを示したからだと言えるでしょう。
さらに利休は、「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点てて飲むばかりなることと知るべし」という趣旨の言葉も残しています。この言葉は、茶の湯を難解なもの、特別なものとして捉える心を戒めています。形式や権威に縛られるのではなく、本質は極めてシンプルなところにある。そのシンプルさを、どこまで深められるかが問われているのです。この考え方は、現代の仕事や学びにもそのまま通じます。複雑にしすぎず、本当に大切な一点に集中する姿勢は、あらゆる分野で力を発揮します。
千利休の生き方から私たちが学べるのは、外側の成功や評価よりも、自分自身の軸をどこに置くかという問いです。人との出会いを一度きりのものとして大切にすること。学ぶときには型を尊び、しかし最終的には自分の責任で選び、決断すること。そして、何を守るために生きるのかを常に問い続けること。利休が茶の湯を通して示したこれらの姿勢は、時代を超えて、私たち一人ひとりの生き方に深く問いかけてきます。
千利休にとって茶の湯とは、日常から切り離された特別な世界ではなく、生き方そのものを映す鏡でした。一碗の茶に心を尽くすことは、一瞬一瞬の人生に心を尽くすことと同義だったのです。利休の名言や逸話に触れることは、私たち自身が何を大切にし、どのように人と向き合い、どのような覚悟で生きるのかを、静かに見つめ直す機会を与えてくれます。その問いは今もなお色あせることなく、現代を生きる私たちの心に、深く、そして確かに響き続けています。
素敵ですよね。いつの日か、茶室にてお茶を点てる私自身がいる気がしています。
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舩井 勝仁 (ふない かつひと)
株式会社船井本社 代表取締役社長1964年大阪府生まれ。1988年(株)船井総合研究所入社。1998年同社常務取締役 同社の金融部門やIT部門の子会社である船井キャピタル(株)、(株)船井情報システムズの代表取締役に就任し、コンサルティングの周辺分野の開拓に努める。 2008年「競争や策略やだましあいのない新しい社会を築く」という父・舩井幸雄の思いに共鳴し、(株)船井本社の社長に就任。「有意の人」の集合意識で「ミロクの世」を創る勉強会「にんげんクラブ」を中心に活動を続けた。(※「にんげんクラブ」の活動は2024年3月末に終了) 著書に『生き方の原理を変えよう』 |
佐野 浩一(さの こういち) 株式会社本物研究所 代表取締役会長公益財団法人舩井幸雄記念館 代表理事 ライフカラーカウンセラー認定協会 代表 1964年大阪府生まれ。関西学院大学法学部政治学科卒業後、英語教師として13年間、兵庫県の私立中高一貫校に奉職。2001年、(株)船井本社の前身である(株)船井事務所に入社し、(株)船井総合研究所に出向。舩井幸雄の直轄プロジェクトチームである会長特命室に配属。舩井幸雄がルール化した「人づくり法」の直伝を受け、人づくり研修「人財塾」として体系化し、その主幹を務め、各業界で活躍する人財を輩出した。 2003年4月、(株)本物研究所を設立、代表取締役社長に就任。商品、技術、生き方、人財育成における「本物」を研究開発し、広く啓蒙・普及活動を行う。また、2008年にはライフカラーカウンセラー認定協会を立ち上げ、2012年、(株)51 Dreams' Companyを設立し、学生向けに「人財塾」を再構成し、「幸学館カレッジ」を開校。館長をつとめる。2013年9月に(株)船井メディアの取締役社長CEOに就任した。 講演者としては、経営、人材育成、マーケティング、幸せ論、子育て、メンタルなど、多岐にわたる分野をカバーする。 著書に、『あなたにとって一番の幸せに気づく幸感力』 |










株式会社船井本社 代表取締役社長



















