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著書『熊野の百姓地球を耕す』 |
私は、大阪府松原市の出身です。その東隣に藤井寺市があります。
松原市の西隣は堺市で、北は大阪市と八尾市に隣接し、南隣は羽曳野市です。
松原市というのは、河内の中心の中河内のちょうど西南の端の市なのですが、実に、あけっぱなしの人間の多いところで、私もすばらしいところを選んで生まれてきたように思います。
ところで私の出身高校の大阪府立河南高等学校の後輩に飛鳥昭雄さんがいますが、彼は藤井寺市の出身です。
きょう、このホームページで取りあげる麻野吉男さんも藤井寺市の出身です。
ところで今年のはじめ私のところへ、この麻野さんから、次ぎのようなお手紙とともに『熊野の百姓地球を耕す』(2011年11月25日 はる書房)が送られてきました。
船井幸雄様
松原の隣町、藤井寺生まれの百姓、麻野吉男です。
「河内の百姓地球を耕す」は、私が怠けて本になりそこね、
本当に申し訳ありませんでした。
あれから十五年、今は本宮で熊野の百姓をやっていますが、
ここで出している通信「くまの」が本になり、はる書房から
出版されました。船井さんに読んでもらいたく、送らせていただきます。
機会があれば熊野に是非おいでください。お身体を大切に(お手紙ここまで)。
多分、私が彼に会ったのは、1990年代の中ごろだったと思っています。一目で惹かれたよい男性でした。
2003年まで、自分で創業した(株)船井総合研究所の代表者をやっていた私は、この船井総研の100%子会社の出版社であった(株)ビジネス社から彼の著書を出してもらおうと思っていたのです。
というのは彼は東大文学部卒の変った経歴の人柄の良い人でしたが、当時のビジネス社社長の花田君も、東大文学部卒で、年齢も余り変らず気が合いそうに思ったからです。
題名も『熊野の百姓地球を耕す』で、決まっていたのです。ところが、麻野さんは、この当時、私に強烈な印象を残しながら、いつの間にか私の前から消えてしまいました。
私自身、生粋の河内の百姓で、小学生時代から農業が本業のようなもので、大学も京大の農学部を卒業したくらいですから、どうしても、彼に、この題名で一冊書いてほしかったのです。
御存知のように、全く病気知らずで元気すぎるくらいだった私が、2007年3月から体調を崩して、もうすぐ5年です。
いま79才ですから、高齢のことでもあり、体力が落ち、病気の辛さに散々苦しみました。いまもまだ苦しんでいます。最近、ようやく病気になった理由や対処法などが分って来たのですが、もう「あの世」へ行くのも悪くないな、などと去年の12月ころから考えていたところへ、この本が、とびこんで来たのです。
ちょうど体調が最悪になり、いただいた賀状などに目も通せず、毎日、病院へ行くか、ベッドに横になって最低限の仕事(いまは、株式会社船井本社の会長ですから、それなりのアドバイス業や意志決定業があります。同社の社長である息子への引きつぎなどもいろいろあるのです)だけをしていたのが、去年12月中旬から今年1月20日ころまでですが、そこへこの本が現われたのです。
この期間、私はほとんど話せず、しかも喰べられず、仕事などは筆談ですませていました。
いまも平均して1日に2−3冊送られてくる本の中の1冊に麻野さんのこの本があり、ともかくなぜか読みたくて仕方なかったのです。
とうとう1月の17日〜19日の3日間、何とかして、この本を読みました。健康な時なら2−3時間で読める分量の本ですが、少し読んでは一休み、で読んだので3日間もかかったのです。
私がきょう、このホームページにこの本のことを書いたのは、ぜひ読者に同書を一読してほしいからで、その内容をここに紹介しようと思ってではありません。
ただ同書の「まえがき」と麻野さんの経歴だけを同書から、そのまま紹介しておきます。
まえがき
もう大分前になりますが、『週刊大衆』に「河内の百姓地球を耕す」というエッセイを20回の連載で書いたことがあります。その頃はまだ生まれ故郷の河内で百姓していて、土地柄、気性が荒く、内容もやんちゃ丸出しという感じでしたか、地球を耕すという気概に燃えていました。
日本の農業は高度成長期以降、斜陽産業として、どんどん片隅に追いやられてきました。その上日本の百姓は地球どころか、ほんの猫の額ほどの面積を耕して生きているのですが、そのマイナーな、あるいは辺境の位置から見えてくるものをよりどころとして、地球を耕すという意識を常にもっていました。「地球を耕す」というのは大ボラでも何でもなく私の農の姿勢でしょうか。
それからまもなく私は熊野に移住しました。生まれた土地だけでなく、自分の選んだ土地でやってみたかったからです。そしてそこをもう一つの故郷にするつもりでした。住んでみてやはり熊野が大好きになりました。生まれ故郷の河内への思いは変わりませんが、それに勝るとも劣らぬくらい熊野に愛を感じています。私はいわば「よそ者」ですが、「よそ者」であるが故にネイティヴ以上の愛をもち得ると思っています。
本宮の現在の地に来たのは、外から見れば偶然なのですが、この場所に案内された時、「こここそ探し求めていた場所だ」と直感的に思ったのです。熊野は河内に比べたら、随分上品でおっとりした所で、私もだんだんそれに染められ、穏やかになりました。歳のせいもあるのでしょうが。
熊野は「神の国」とか「甦りの地」と言われるだけあって、私のようなものにもそこここに神の気配が感じられます。ここで暮らすうち、毎日お祈りせずにはおれない神様オタクになってしまいました。昔、ドリス・デイの歌に「ティーチャーズ・ペット(先生のお気に入り)」というのがありましたが、私はさしずめ「ゴッズ・ペット」というより、それに憧れているのでしょうか。
河内にいる時は、人間の力で地球を耕そうと意気ばっていましたが、本宮に移ってからは、神の力を借りて、神と一緒に地球を耕そうと思っています。私は霊能者ではなく、神の声がきこえる訳ではありませんが、宇宙の根源とつながらなければ、人類の未来はないということぐらいは、はっきりとわかります。世界が新しい社会ヘシフトしていく時、農や自然は重要なファクターとなるだろうし、それにも増して神の参加は欠かせないものとなるでしょう。
著者略歴
麻野吉男(あさの・よしお)
1944年 大阪藤井寺生まれ。東京大学文学部卒。
30歳より農業に従事、現在に至る。
1990年、宮本重吾氏等と、百姓の百姓による百姓のための本『百姓天国』(地球百姓ネットワーク編集・発行)創刊に関わる(本は13集まで刊行)。
2000年、本宮町に移住。ここを終いのすみかとする。
著書に『ギンヤンマが翔ぶ日』(財団法人富民協会、1990年)『現代日本文化論』〈5〉ライフスタイル)(共著、岩波書店、1998年)がある。
*
連絡先:〒647−1705 和歌山県田辺市本宮町高山 1289
TEL.0735−42−0724(転載ここまで)
私には400余冊の著書があります。合計しますと何千万冊も読まれています。
しかし麻野さんのこの本一冊に匹敵する著作は、いまの私の心境からいえば1冊もないように思えるのです。それくらい、いまこの本に惹かれました。
これは多分79年の社会経験と、最近の病気の辛さが、必然的に私に教えてくれたものだとも思うのです。
彼の文章の一語一語が、いまの私には、深く良識的に考えられて、さらに「生きている意味」「生き方」についても考えさせられたのです。
彼は29才の時に舌の異常がもとで神経症になったと同書内で書かれています。これは大変な病気です。
去年の10月末から、舌の異常で困りぬいていた私がある医科大学附属病院でまず案内されたのはMRIを撮る部屋と神経内科でした。いまも週に1−2回、その大学の教授である神経内科のプロに指導を受けています。こわい辛い病気です。同書内では麻野さんは、この神経症を森田療法で治療したと記しています。
とはいえ、同書には、終章として「第三の人生」という一章があります。
その中で森田療法とともに、私もその考え方をよく知っていましたが、実践できなかった甲田療法や五井昌久先生の考え方を以下のように記しています。
甲田先生や五井先生は、私とは特に縁があった人だと思える人です。
神経症のつらさ、苦しさなどに非常に、悩まされていただけに、この終章の文章は、特に私を惹きつけたのです。
危機一髪
1980年から今日に至るまで、人生における出来事は色々あったが、神経症を中心に考えるなら2004年まで、特筆すべきようなことはなかった。
2004年6月、私は熊野本宮(ほんぐう)にいた。1997年、故郷の藤井寺を離れ、単身すさみ町の佐本(さもと)という年寄りばかりの過疎のムラに移住する。そこで百姓をしながらムラ興しに奔走するが、失敗して2000年に本宮に再び居を移す。この間離婚。現在の妻佐代と再婚する。
その日はまだ夏至だというのに、台風が吹き荒れていた。夕方になって治まり、かたづけでもしようかと外に出たとたん、胸が息苦しくなって、どんどんエスカレートしていく。その兆しは相当以前からあったのだが、一度も検査を受けたことがなかった。それは明らかに死に直結する痛みだった。「救急車!」と思うが、騒ぎが大きくなるのが嫌だ。佐代は畑に台風の後かたづけに行ったのか見当たらない。居候のY君に運転を頼み、新宮(しんぐう)の医療センターヘ。激痛に非常な圧迫感も加わる。
「これは病院までもつかどうか五分五分だな」と感じていた。耐えること以外ないので耐えているが、選択が許されるなら一分も耐えられない苦痛である。死が眼前にありながら身体の苦痛が激し過ぎて死の恐怖を感じる余裕がない。そのくせ意識ははっきりしていて、「これは罰なんだ」と思っている。
「何の罪に対してか知らないが、この罰を受けなければ右にも左にも行けないんだ」。
病院はもう閉まっていたが救急口へ。私はドアを開けるなり、バタッと倒れ、胸を押えて「ウウッ」とうめき「死にそうだ」と言った。看護婦はかがみこんで、平然と目の前に紙とペンをつき出し「ここに名前と住所を書いて下さい」。
再 発
手術が終ったのが11時。病名は心筋梗塞。発作が起ってから6時間経っていた。2週間入院して無事退院した。
そしてその年の10月。私は再び心臓の手術を受けることになった。6月の手術は冠動脈の細くなった血管を広げ、ステントという針金の筒でしぼまないようにしたものだった。私の場合、冠動脈の太い血管のうち2本がつまっていて、治療したのは1本だけで、もう1本は細くなり過ぎて手がつけられなかったのである。
そこで友人の紹介で東京の専門の病院で再手術を受けることにしたのだが、結果はやはり血管がつまり過ぎて不可。ハイパス手術しかないという。ステントなら足のつけ根の大腿動脈という太い血管から入れられるが、バイパス手術となるとそうはいかない。肋骨を切り胸を開かなければならないので本格的な外科手術となる。
「この際」というので手術を受ける決心をするが、雨の中で農作業したのがたたったのか熊野からひどい咳をもちこんでいて検査したら肺炎。まずその治療に2週間。それが癒え手術の日程も決まるが、最終検査でまた新たな胸の曇りが見つかる。
その間、新宮とちがい、東京の挟くて猥雑(わいざつ)な環境におかれ神経が休まらない。その上、心臓と肺を同時に冒されているのだから何だか息苦しく、心理をだんだんコントロールできなくなる。そして「ドカーン」。30年振りまさかの噴火。神経症の再発。この神経症は絶対の権力者。お通りになる時には心筋梗塞すら土下座する。
私はこの心理状態ではとても手術に耐えられないと思い、手術断念の思いに傾くが、神経症の怖ろしさを知らない医者は手術を勧め、説得される。しかし胸の曇りの原因が分からず待機していたが、最後の検査で胃底から結核菌が見つかり、土壇場で全て御破算。
笑える心境ではなかったが「結核」と告げられ笑ってしまった。心筋梗塞に肺炎、神経症の再発に、いかにも取って付けたような結核のおまけまで。これはもう何らかの見えない意図が働いているとしか言いようがなかった。
神経症が再発した時、昔とちがい自力脱出は無理だと思った。あれ程のバトルを繰り広げるだけの体力も気力も残っていない。「今度は他力だ」。
これは後で思ったことだが、あの時結核菌が出現してくれなかったら、私は無理な手術をして死んでいたかもしれない。肺炎になること自体、免疫力低下の信号なのだから、あの時は心身共に最悪のコンディションであったのだ。
私はほぼ1ヵ月入院して、何の成果もないまま行く時よりはるかに有難くない荷物をかかえて熊野に帰ってきた。丁度里芋の出荷の時期で、一日中倉庫に籠って出荷の仕分けをした。光明の全く射さない八方塞がりの中で、ひたすら里芋のヒゲを取り土を落した。ただもう一刻一秒の時間を埋めるために仕事をしていた。その一方で我が家の裏山にある聖地七越の峰に上って、死の直前まで断食してみようか等と考えたりもしていた。
この時私は60歳であったが、ずうっと以前から「60歳になったら何か起こるのではないか」と思っていた。29歳で神経症になり、30歳で克服し、農業という天職に出会い、自分で羨む程幸せな日々を送ってきた。そしてそのことに常に感謝し続けてきた。
しかし、一丁前の百姓になり、いよいよ脂が乗ってきた頃から、何かしら不足感あるいは飢餓感を覚えるようになった。「一体なんだろう」と考えても分からない。でも、でも「何…か…が…足りない…」。
いつまで経ってもその不足感が埋められず、いつの頃からか「きっともう一度何かが起こるんだ」と思うようになった。それが60というのは、30で生まれ変わり、30年して60でもう一度生まれ変わるという期待で、誠に自分勝手な都合のいいシナリオであった。
しかし既に私は60歳になり、事件は筋書き通りに進んでいたのだったが、当人の私はそのことに全く気づいていなかった。それは何故かというと、人間には欲目というものがあり、私は無意識のうちに美女との遭遇を予想していたらしいのだが、相手は鬼の姿をして現れたからである。
神 託
熊野で希望のない日を送っていた11月のある日、知り合いのKさんから電話。八尾の甲田光雄先生の所で断食中という。甲田先生というのは西式健康法を核にした断食療法や少食療法で、広く名の知れた人である。西洋医学では手に負えない難病の人を主に受け入れ、多くの実績をあげていた。私は農業と医療と教育は生命を媒体にして有機的にリンクしなければならないという考えをもっていたが、甲田先生は医者の立場からその考えに共鳴し、何かと応援して下さっていた。同志であり、師匠でもあった。
Kさんが「どうしてる。元気ですか」というので、私はぶっきらぼうに「元気どころか、死にかけています」と笞えた。相手はびっくりして、甲田先生に即御注進。数分して再び電話があり、「八尾に来るように」とおっしゃってるということであった。
正直、神経症や心筋梗塞が運動療法や食事療法で治るとは思わなかったが、さりとてここにいても、虚しく時が過ぎてゆくばかりだった。「いっそ甲田先生に身も心もあずけてみようか」、最初は乗る気でなかったがだんだんその気になり翌々日、八尾に向けて出発と相成る。
甲田医院に着くや、早速診察。心臓も結核も神経症も、みんなまとめて任せておけと。今飲んでいる色とりどりの薬を出すと、みんな棄てなさいと言われる。心臓は毛管運動をしっかりすれば、自然のバイパスが出来て、手術しなくて済むという。心臓の薬を今離したら、ひょっとして死ぬかもしれないと危ぶむが、「任せてみよう」という気の方が強かった。この時も「他力」につながる実践が幕を開けていたのだが、やはりそのことに気づいていなかった。ただ無性に宗教のことが知りたく、甲田先生にねだって宗教の講義をしてもらった。しかしその時の私には全く物足りなくて、もっと根本的なことを知りたいと強い渇望感が残った。
治療は2日目から始まり、裸体操(裸になって毛布を被ったりはずしたりして、皮膚呼吸を活発にし、皮膚から老廃物を外に出し、いい空気を取り入れる)と毛管運動(寝ころんで手足を上げブルブル振るわせて、血液循環をよくする)を主に一日中、西式の体操をした。食事は一日青汁1杯、玄米80グラム、豆腐1丁。それを2回に分けて食べた。常識を超えた超少食であるが、それすら全部食べられない程、神経症で私の心は疲弊していた。
1週間程した朝の診察の時間、甲田先生から重大な話をきかされる。「実はな、夕べあんたのためにお祈りしたんや。あんたがどうなるのか、わしの守護神さんにきいたんや。神がおっしゃるには、あんたの魂はとても綺麗で神格の高い神様がついておられるいうことや。いずれその神様の声をきいて、そのことをみんなにお伝えするお役目を授かるはずや」。
私はその話を素直にきき、神様と甲田先生に感謝した。心の中がふんわりと温かくなり、尖(とが)った景邑が丸くなった気がした。新たな人生への産みの苦しみなら、それは納得のいくことであった。私は解放感でつい悪のりして「それにしても、もう少しで楽にならないものでしょうか」と言うと、
「神はその人の器に応じて苦しみを与える。耐えられない苦しみは与えない」と答えられた。
五井先生
それから暫くして、私のリクエストに応じ、甲田先生の奥さんが五井昌久先生の著書やテープをドサッと持ってきて下さった。五井先生というのは世界平和の祈り(世界人類が平和でありますように)の提唱者である。御夫婦とも、五井先生の信奉者で、甲田医院の本棚にはその著書が何冊もあった。20年近くもそこに出入りしながら私はついぞ手にとろうとすらしなかった。宗教にも宗教者にも全く興味がなかった。甲田先生の抹香臭ささえ敬遠しがちであった。
しかし今はえらい変わりようで五井先生の本を片っ端から読み、テープを貪り聴いた。
まさにそれまでの渇きや飢えを満たすように、五井先生のコトバは次々と私の心の腑に落ちていった。「人間とは何か。生命とは。魂とは。霊とは。神とは」疑問に思っていたことが、全く抵抗なく氷解していく。私は自分の知性を信じているが、知性だけでは絶対真理に行き着くことはできない。真理は目に見える世界と目に見えない世界両方にまたがっているので、その両者の深い溝を飛び越えられるのは知性ではなく、魂の飛翔力である。
私はぎりぎりまで知性の乗り物にのって、後は五井先生に手をひかれ、その溝を案外気楽に飛び越えてしまったのである。
1ヵ月程入院した暮れも押し迫った退院の前日、甲田先生が部屋に来られ「えらい元気になったなあ。顔なんて来た時と全然ちがう。それだけ元気になったら、気がどんどん出てきてモヤモヤを追い出してしまうやろ」。
退院してからも経過は順調だった。しかしある日大悟して、神経症が消えてしまったのではない。祈りの生活を続ける中、2ヵ月、3ヵ月していつの間にか霧が晴れていったのだ。
私の神経症体験もそろそろ終りに近づいてきた。私の一生において神経症体験は大きな比重を占めるが、それは結局のところ、神と出会うために用意されたものであった。私が長い間感じてきた不足感は神の不在からくるものだったのだ。
私は神経症を通して、二度奈落の底へ突き落された。一度目は森田療法によって自力ではい上った。これは血の涙が何度も流れるという大変な死闘で、苦しかったからこそ乗り切れたのである。
他 力
森田療法のキーワードは「あるがまま」である。「あるがまま」というのは一見他力的であるが、森田先生の「あるがまま」を実行しようとしたら、半端じゃない自力の力が要る。その上「あるがまま」が理解できるのは、ある程度治癒してからである。森田先生は好んで禅のコトバを引用されたが、禅そのものは自力の世界だ。
死について先生は「死は怖い。それが当たり前だ。どうにもならないものに抵抗したって始らぬ。あるがままに怖がればいい」と言い、死に際に「怖い、怖い」と言って亡くなられた。弟子たちの前で「人間はこんなもんだよ。それでいいんだよ」と実演されたのである。しかし「死が怖い」というのは、やはり不自由だ。それは自力の世界に留まっているからである。
自力と他力のちがいをちょっと乱暴に言うと、自力は神は要らないが、他力は神がいなければ成り立たない。他力というのは神に身を預けることだからである。神を宇宙と呼びかえてもいいが、自らが宇宙と同調すれば、いついかなる時も安泰である。宇宙は全てであり、根源であり、大調和であるからだ。他力とは神の搖籠(ゆりかご)で生かされることである。
10歳余りで死の恐怖にとりつかれ、ここまで長い旅路であったが、甲田先生のお陰で五井先生に行きつき、神と出会い、他力の門をくぐらせてもらった。私に与えられた方程式は、これでほぼ解けた感じがするのである。後は遙(はる)かに続く神の道(真理の道)を歩くだけである。
三生を生きる
甲田医院を退院して何ヵ月か経った頃、甲田先生は訪れた私の目の所に手をかざして「入ってる、入ってる。神の光が入ってるでえ」と言われた。「わしはなあ、あんたがこの事に気づいてくれるのをずうっと待ってたんやで」と言って、いかにも嬉しそうに相好を崩された。それは自分が一番伝えたかったことをしっかりキャッチした自分の理解者に対する連帯の笑みでもあった。
「この事」の意味は、私にはすぐ解った。ひと事で言うと、絶対的な真理ということである。具体的に言うと、こういうことだ。
人間は大霊である神から分かれた分霊で、資質としては神と同じものである。そして人間はみなその同じ資質でできているのである。人間には肉体にまつわる業(ごう)があるので、業という塵芥(じんかい)で霊の光を遮っているが、空(くう)になりそれが抜け落ちれば、神と一体になるのである。人間の本質は霊であり、永遠不滅のものである。肉体はこの三次元世界で生きるための乗り物にすぎない。死とはこの世から霊界に引っ越しすることで、生命が終わることではない。霊と魂はどうちがうかといえば、霊は本質であり、魂は現象である。つまり霊に業の乗っかったものが魂である。その時その時の霊の姿を魂という。そう私は理解している。
肉体がなくなってから行く世界は色々あるが、魂は各々個有の震動数の波動があり、その波動と同調する世界に行くのである。霊性が高い程、震動数が高いとされる。
金や権力といったものはこの世というローカル世界だけで通用するもので、いかなる世界でも通用するパスポートは、愛とか調和といったものである。
こういうことが世の中の常識になれば、意味のない争いはなくなる。平和運動同士が対立したり、宗教同士が喧嘩するというようなことは回避される。というより宗教そのものがなくなる。今述べたことが、科学に包摂(ほうせつ)され、一般常識になるであろうから。
私はこれまで社会変革的なことや世直し的なことを口にし、また行動したりしてきたが、そんな私を見て人間の本質や生命の実相を踏まえたものでなければならないと、甲田先生は思っておられたのであろう。
還暦になって、私の第三の人生がスタートした。「一粒で二度甘い」という何処かのコピーがあったが、私の場合は「一生で三生」という極めて効率のいい人生に恵まれた。それもこれも神経症が私を鍛え上げてくれたからで、これ程豊かでダイナミックな人生をプレゼントされたことに、感謝し切れない程感謝している(転載ここまで)。
私の、死にたくなるような辛い体験もあり、同郷の百姓であることと重なり、同書に書かれていることに私は特に強く惹かれたのでしょう。
しかも、この本の話題は、最近のことが多く、すべての読者がその内容について人生訓としてよくお分りになると思います。
人間や人生について、こんなに深く、そして分りやすく教えてくれる本は、めったに他にないと思います。それに彼や飛鳥さん、そして私の生まれた激しい生き方をしている人の多い土地である河内のこともよく分ると思います。昭和20年代、今東光さんが八尾に住み、びっくりした土地、そして甲田先生や飛鳥、麻野さん、そして私などが生まれた河内の風土は、いつか多くの人にそれなりに実にすばらしい所と知ってほしかったのです。
ぜひ御一読され、いろいろお考え願いたく、きょうは1冊の本について私の言いたいことを紹介いたしました。
=以上=
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