トップが語る、「いま、伝えたいこと」
高校時代、当時存在した「倫理社会」という科目がとても好きでした。
珍しくその授業を楽しみにしていたことが記憶から蘇ってきました。
2年生の「倫理社会」の初めての授業。
「君らな、これ、なんでチョークっていうか知ってるか?」
先生は、指にチョークを持ち、いきなりこの訳の分からない質問を私たちに投げかけました。もちろん、全員が口あんぐり……。
先生:「ここに存在しているのは、ほんまにチョークなんか?」
「みんな、この見えているものが『存在する』と考えていいんか?」
生徒:「・・・・・・・・・・・・」
「(なんや、この先生は……?)」
きっと、皆がそう感じていたと思います。
それくらい強烈なインパクトで、「倫理社会」の授業がスタートしました。
先生は、「存在」というものについて、先入観を取っ払ってとらえさせようとされたのですね……、きっと。もちろん、これはかなり後になっての気づきではあります。
それから1年、相変わらず訳のわからない(先生、ごめんなさい!)問いかけの山が続き、教科書に登場する哲学者や思想家、あるいは時代の流れとともに変遷するものの考え方、捉え方を学ばせていただきました。
私にとって、この先生とこの科目との出会いは、それはそれは大きなものとなって頭と心に残っています。
さて、プロタゴラス(前500年頃〜前430年頃)という哲学者。
はじめて自ら「ソフィスト」(知恵ある人の意味)と名のったと言い伝えられています。「人間は万物の尺度である」という成句で有名ですね。「万物の尺度は人間である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」と言う文であり、つまり存在か非存在かは、それぞれの主観によって違ってくるものであり、絶対的、普遍的な真理など存在しないという、相対主義的な考え方、あるいは人間中心主義ということもできます。
ある意味、いまの私たちからすればとても共感できる考え方のように思えます。たとえば、「これこそが絶対的真理だ!」と主張する人よりも、「人それぞれだよね」と言う人の方が、柔軟でものわかりのよい人物に見えるものです。
でも、実際のところ、この「人それぞれ」の相対主義は、ある困った弊害を生み出すことがあると教わりました。それは「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいいんだ」となって、「真理を求める熱い気持ち」を失ってしまうということです。
そもそも「絶対的な真理や絶対的な正しさなんてないんだ!」と言われても、やっぱり私たちは「なんらかの正しさ」を見つけていく存在ではないでしょうか? それが人の世というものです。どう生きるべきか、どう死ぬべきか、国家はどうあるべきか、なんのために働くのか……。そういうことです。
水の冷たい、温かい……。気温の寒い、暑い……。これはまさに人それぞれなので、絶対的に決められるものではありません。でも、たとえば温泉旅館のお湯の温度、お店の快適な温度については、やはり一番理想的でより多くの人を快適に感じてもらうためには、「最適な理想の温度」を追求していく必要があります。
こう考えると、相対主義の考え方を推し進めて、いわゆる“ゆるい”方向に向かい過ぎて堕落してしまうと、「何事も絶対的に決められないんだからさー、適当でいいんじゃなーい?」とさじを投げてしまい、一生懸命考えること自体を放棄してしまう可能性があります。
それは、特に民主主義国家の場合には致命的です。民主主義では、基本的に「投票」という「多数決」が重視されます。国会でもそうですよね!でも、多数決が有効に働くためには、事前に人それぞれの正しさや価値観や信念をぶつけあって議論し尽くしている必要があります。そうしてはじめて「投票」という「多数決」は、「おさまるところにおさまる」ように機能していきます。
にもかかわらず、事前に官僚によって準備された質問や答弁をやりとりすることで、議論をし尽くしたといえるのでしょうか? みんなが「正しさ」や「こうあるべき」などの「自分の考えを決めるための価値観」を持っていなければ、多数決は有効には働きません。結局のところ、みんながなんとなく多数決に参加するわけですから、与党主導の展開、国民にとって耳ざわりの良い政策に各議員、あるいは各党が乗っかって、審議(のようなもの)が進められていきます。
選挙だってそうですよね。ごく簡単に言えば、クチのうまい雄弁な政治家、とりあえず地盤を活かして票集めをする政治家が、結果としては票数を左右していきます。つまり、民主主義は、その場のノリで物事や権力者が決まる無責任な方向へと成り下がってしまいます。もっともキツイ言い方をすれば「衆愚政治」ということです。
紀元前400年頃の古代ギリシア。この古代の民主主義国家においても、同様のことが起きていたそうです。
「国家のため!正義のため!みんなの幸せのため!断固たる決意を持って抜本的改革を!」プロタゴラスから相対主義の哲学を学んだ政治家たち。彼らは、見せかけだけの言葉を上手に操り、民衆たちから人気を得る術を十分に心得ていました。彼らは、決して民衆に向かって真面目に政治の話なんかしたりしません。だって、真面目に政治を語って、政治に興味のない民衆を退屈させるよりは、ただ耳に聞こえのいい、内容のないキャッチフレーズを繰り返した方がウケがいいからです。
しかも、相対主義が横行していた時代ですから、ライバルの政治家たちも、下手に「こうあるべきだ!」と主張しようものなら、相対的な価値観であっさり反論されて、窮地に追い込まれてしまいます。だったら、明言を避けて「抜本的改革を!」とか中身のない、なんとでも取れる、美辞麗句を並べ、おまけにほかの政治家の悪口でも言ってた方がよっぽどマシなのです。……、いまの選挙や政治もそっくりですよね!
そこで登場したのがかのソクラテス(紀元前469年〜紀元前399年)でした。ソクラテスはソフィストの一人でしたが、プロタゴラスの考え方を徹底的に批判したのです。
ソクラテスの考える弁論術というのは、誰かとの対話の中にある、矛盾と無知を指摘することで、正しい人間の生き方を見出すものでした。ところが、結果として、多くのソフィストたちは、自分の考えを押し付けて、言い負かすのが弁論術だと考えていたのです。
ソクラテスのこの考え方を実現するためには、問答法(助産術、産婆術)が適切だと考えたのです。問答法とは、すでに分かっていることから始めて、相手と同意しながら一つの結論を導くことです。そのために、自分は相手に質問をする役に回り、相手が質問によって自分自身で理解する手助けをすることが大事だとしました。
……と、ここまでは学校で習う教科書的な内容なのですが、実際は結構攻撃的だったようです。ソクラテスは、馬鹿なふりをしてこう問います。
「今、正義って言いましたが、正義って何ですか?」
相手が、たとえば「それはみんなの幸せのことだよ」などと答えたら、「じゃあ、幸せって何ですか?」とさらに質問を続けていきます。これを繰り返せば、相手はいつか答えにつまるようになるはずです。そこで、すかさず「答えられないってことは、あなたはそれを知らないんですね。知らないのに今まで語っていたんですね」とツッコミを入れていきます。こうした展開では、質問者の方が強いということはもちろんわかっていたのですね。相手がボロをだしたら反論しまくるという戦法で、偉い政治家たちを次々と論破していったのです。
それは、ソクラテスが相対主義を是とせず、絶対的な価値、真理といった「本当の何か」つまり「真実」や「真理」を人間は追究していくべきだという強い信念を持っていたからだといいます。彼は、「価値観なんて人それぞれさ」を合言葉に真理を追究しない世の中、見せかけだけの言葉で満足してしまっている世の中が許せなかったのです。
こうして相対主義の政治家たちを打ち負かした後、民衆にこう語りかけたのです。
「本当に正しいこと、本当の善とは何か? 偉い政治家たちは、そうした真理をあたかも知っているかのように語っていたが、実のところ何もわかっていなかった……。もちろん、この私も全然わかっていない……。じゃあ、そもそも、本当の善っていったいなんだろう?」
ソクラテスは決して知ったかぶりをしませんでした。しかも、自説を押し付けがましく語ったりはしなかったのです。それどころか、彼は「私は真理について何も知りません」と自らの無知をさらけ出し、「だから、一緒にそれを考えよう」と道行く人々に話しかけていったのです。
これが、あの「無知の知」です。
ただ、「ソクラテスは、自分自身の無知を知っているから、無知を自覚していない知識人たちよりも賢い」という解釈は少し違っているようです。この言葉を「知らないということを知っている謙虚な人は偉い」といった、ちょっと気のきいたレトリックや教訓として捉えるべきでもありません。
ソクラテスは、ただとにかく「真理」が知りたかったです。だからこそ、知ろうとしない人たちに、気づかせたかったのです。無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすものだということを……。「知っている」と思っていたら「知りたい」と思うわけがありません。「知らない」と思うからこそ「知りたい」と願うわけですよね。「だから、まず自分が何も知らないと認めるところから始めよう!」これがソクラテスの「無知の知」の真の意図です。
舩井幸雄が残した「素直・勉強好き・プラス発想」の成功の3条件。このなかの「素直」は、「まずはそうかなと思って受け入れよう」「知らないことを認めることが学びのエネルギーになる」ということを示唆していますが、ここでお気づきいただけたかと思います。
「素直」=「無知の知」
無知を自覚してこそ「真理を知りたいと願う熱い気持ち」が胸の内にわきおこってくるのだということを、ソクラテスは、そして舩井幸雄は多くの人たちにただただ伝えたかったのですね。
ちなみに、ソクラテスの「無知の知」には、別の解釈も存在します。
彼の言う「無知」とは「知らない」ということではなく、「お金や名誉を重要と思い、魂(≒心)を気にしないこと」を指すという解釈です。この時に、魂の大切さに気づくことを、無知の知と言ったとか……。
「哲学」の世界って本当に面白いですね!
感謝
2023.05.22:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】超訳「五輪書」 (※舩井勝仁執筆)
2023.05.15:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】本当の『無知の知』 (※佐野浩一執筆)
2023.05.08:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】インベスターZ (※舩井勝仁執筆)
2023.05.01:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】人生はご縁のたまもの (※佐野浩一執筆)
舩井 勝仁 (ふない かつひと)
株式会社船井本社 代表取締役社長 1964年大阪府生まれ。1988年(株)船井総合研究所入社。1998年同社常務取締役 同社の金融部門やIT部門の子会社である船井キャピタル(株)、(株)船井情報システムズの代表取締役に就任し、コンサルティングの周辺分野の開拓に努める。 2008年「競争や策略やだましあいのない新しい社会を築く」という父・舩井幸雄の思いに共鳴し、(株)船井本社の社長に就任。「有意の人」の集合意識で「ミロクの世」を創る勉強会「にんげんクラブ」を中心に活動を続けた。(※「にんげんクラブ」の活動は2024年3月末に終了) 著書に『生き方の原理を変えよう』(2010年 徳間書店)、『未来から考える新しい生き方』(2011年 海竜社)、『舩井幸雄が一番伝えたかった事』(2013年きれい・ねっと)、『チェンジ・マネー』(はせくらみゆき共著 2014年 きれい・ねっと)、『いのちの革命』(柴田久美子共著 2014年 きれい・ねっと)、『SAKIGAKE 新時代の扉を開く』(佐野浩一共著 2014年 きれい・ねっと)、『聖なる約束』(赤塚高仁共著 2014年 きれい・ねっと)、『失速する世界経済と日本を襲う円安インフレ』(朝倉慶共著 2014年11月 ビジネス社)、『智徳主義【まろUP!】で《日本経済の底上げ》は可能』(竹田和平、小川雅弘共著 2015年 ヒカルランド)、『日月神示的な生き方 大調和の「ミロクの世」を創る』(中矢伸一共著 2016年 きれい・ねっと)、『聖なる約束3 黙示を観る旅』(赤塚高仁共著 2016年 きれい・ねっと)、『お金は5次元の生き物です!』(はせくらみゆき共著 2016年 ヒカルランド)がある。 |
佐野 浩一(さの こういち) 株式会社本物研究所 代表取締役社長 株式会社51コラボレーションズ 代表取締役会長 公益財団法人舩井幸雄記念館 代表理事 ライフカラーカウンセラー認定協会 代表 1964年大阪府生まれ。関西学院大学法学部政治学科卒業後、英語教師として13年間、兵庫県の私立中高一貫校に奉職。2001年、(株)船井本社の前身である(株)船井事務所に入社し、(株)船井総合研究所に出向。舩井幸雄の直轄プロジェクトチームである会長特命室に配属。舩井幸雄がルール化した「人づくり法」の直伝を受け、人づくり研修「人財塾」として体系化し、その主幹を務め、各業界で活躍する人財を輩出した。 2003年4月、(株)本物研究所を設立、代表取締役社長に就任。商品、技術、生き方、人財育成における「本物」を研究開発し、広く啓蒙・普及活動を行う。また、2008年にはライフカラーカウンセラー認定協会を立ち上げ、2012年、(株)51 Dreams' Companyを設立し、学生向けに「人財塾」を再構成し、「幸学館カレッジ」を開校。館長をつとめる。2013年9月に(株)船井メディアの取締役社長CEOに就任した。 講演者としては、経営、人材育成、マーケティング、幸せ論、子育て、メンタルなど、多岐にわたる分野をカバーする。 著書に、『あなたにとって一番の幸せに気づく幸感力』(ごま書房新社)、『ズバリ船井流 人を育てる 自分を育てる』(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)、『私だけに教えてくれた船井幸雄のすべて』(成甲書房)、船井幸雄との共著『本物の法則』(ビジネス社)、『あなたの悩みを解決する魔法の杖』(総合法令出版)、『幸感力で「スイッチオン!」』(新日本文芸協会)がある。 |