トップが語る、「いま、伝えたいこと」
たとえば、木の棒を折ったとします。
さらに折ります。
こうして無限に折り続けていくことができたとしたら、この木の棒は分割できないくらいの小さな粒の集まりになるはずです。
これを「原子」と呼ぶことにします。
世界中のあらゆるものはこの「原子」からできていると言えます。この究極の最小単位である「原子」によって、この木の棒を説明することができたら、もはやこの存在について謎はない……と言えるのでしょうか?
哲学者・ハイデガーは、こうしたやり方では、絶対に「存在そのものを理解する」ことにはつながらないと考えたのです。なぜなら、ものを部分にわけて捉えようとしても、どれだけ細かくしても、「ない」には行き着かないからです。ということは、どこまでいっても『「ある」とはどういうことか?』という問いに、明確な答えを見つけられません。
人間のあらゆる思考や説明は、「AはBである」といった形式の言葉の積み重ねでできていて、その言葉の中に「ある」が含まれている以上、人間は決して「ある」を説明できないという結論になってしまいます。
ハイデガーは、このように『存在とは何か』に真摯に向き合った哲学者です。
それで、そのハイデガーが、その命題を解決できたのかというと、面白いことにそうではなかったのです。あの有名で難解とされる哲学書「存在と時間」も、結局は未完のままで、上巻は発刊されたものの、続きの下巻は結局書かれなかった……のです。
私は、昔から、この「存在」というものについて、めちゃくちゃ興味を持ってきました。すべては「ある」「なし」で存在?していて、でも、その「ある」「なし」ですら、証明するのは至難の業。ここを考え続けることが、なんとなく面白かったのです。
余談はさておき……、「存在」は時間の流れのなかにあり、過去があるから現在があって、現在によって未来が決まる……。時間を抱えて存在しているなかで、未来の可能性に自らを駆り立てて生きることを、ハイデガーは「実在的生き方」と呼びます。
また「死とは何か」を問うことで実存の本質を探る「死の現存在分析」では、「死」との関わり方が現在の在り方を規定し、死を捉えることが人間の生き方についての探求であると論じます。こうなってくると、もう訳が分かりません……。と思いきや……、噛みしめてみると……、なんとなくわかる気がしませんか? 存在を時間によって理解しようとしたということなんですよね。
「難解だ、難解だ」と言われるので、難解だと思い込まされてしまうのですが、解説書もたくさん出版されていて、「なあーーーんだ、そういうことか!」いうことも多々あります。もしかすると、その難解さはハイデガー特有の言葉づかいによるものかもしれませんね。実際に、ハイデガーの著作には名言も多数あって、現代に生きる私たちが生きていくうえで、役立てることができるものもたくさんあります。
★「偉大に思索する者は偉大に迷うに違いない」
小さな悩みを抱えている者は、小さな迷いで終わるもの。一方で、悩みの規模が大きければ大きいほど、迷いの規模も大きくなるものです。大きな成果をあげる者は、その成果と同じくらい悩んだり失敗を重ねたり苦労をしています。しかしその苦労から目をそらさず、たくさん悩んだ者こそが成功できるということもでもあります。
★「経験を積んだ人は、物事がこうであるということを知っているが、なぜそうであるかということを知らない」
自分が経験したことを他人から説明されると「そんなことは知っている」と聞き流してしまいがちです。そうして本質を深堀りせずに、あたかも理解している気になってしまうと思考は止まってしまうものです。何をもって「知っている」というのか、本質は何なのか、あらためて考える必要があるということです。これって、舩井幸雄の「素直」に似てますよね!
★「単純なものこそ、変わらないもの、偉大なるものの謎を宿している」
シンプルイズベストという言葉があるように、単純なものこそ時代を経ても変化することなく存在し続けているものです。
★「良心は、ただただ常に沈黙という形で語る」
良心は、私たちのなかにたしかに存在していますが、直接語り掛けることはせず、私たちを見張っています。それが、良心という存在です。ハイデガーは、人間に当たり前のように備わっているもので、その存在を無視すことさえしなければ、自然とよいおこないができると言いました。
★「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」
存在の分析には、死への自覚が必要だということです。「存在の終わり」を自覚してこそ「生」を実感できるのです。死を意識してこそ、有意義な生き方ができるのではないかと、ハイデガーは問いました。
こうしたハイデガーの言葉は、意外とわかりやすい……と感じられたと思います。
ただ、これらの中にも、ハイデガーらしい定義というか、とらえ方が含まれていることは確かです。そこで、代表的な、「現存在」「死への存在」「ダス・マン」といった特有の思想について、このあと少々まとめてみたいと思います。
その前提として、ハイデガーが活躍した時代のことに少しだけ触れておく必要があります。当時は、産業革命によって機械化が進み、大衆文化によって人々が没個性化していく時代でした。また、ドイツでは1929年の世界恐慌によってハイパーインフレが起こり、人々が持っていたお金がいきなり無価値になってしまいました。こうした時代背景があったからこそ、ハイデガーは人が存在する意味を問い、個人がどのように生きるべきかという哲学を主張したというわけです。
そこで、ハイデガー独自の用語を並べてみます。
★「存在と存在者」
ハイデガーは「存在」と「存在者」という言葉を使い分けます。「存在」とは何かが存在するという事実を指し、「存在者」は実際に存在している人や物を指します。たとえば、人間や動物、植物などはすべて「存在者」であり、それらが存在しているという事実が「存在」ということです。
★「現存在」
自らの存在を問う存在者のことを言い、具体的には「人間」のことを指します。ハイデガーは、人間は決断によって自分の存在の在り方(=生き方)を自由に選択できると考えました。そしてこの性質は、他の動物にはない、人間だけの特徴であると主張したのです。
★「世界-内-存在」
「世界-内-存在」とは、存在者が他の様々な存在者と関わりながら存在しているという考え方です。たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんは、母親や哺乳瓶といった自分とは別の存在者と関わりながら生きていると言えます。ハイデガーによれば、私たちは何の目的も持たない状態でこの世界に生まれ、そして生まれた瞬間から他の存在者との関係の中で存在しています。もし仮に、他者との関係を断ち切って山籠もりをしたとしても、そこには木々や野生動物といった存在者との関わりが生まれてきます。結局は、関わりは断ち切れないということになります。
★「死への存在」
「死への存在」とは、人間の存在(=人生)は本質的には「死」に向かっているのだという考え方です。ハイデガーは、私たちの人生には目的はなく、生まれた瞬間から一歩ずつ、死に向かって進んでいるにすぎないと考えました。たしかにそうですが、そう断ち切ってしまっては、元も子もないと感じてしまいませんか?
もし人生が100年間だったとして、たとえば生まれたばかりの赤ちゃんが1年間生きることは、寿命があと99年になるということであり、1年分「死」に近づいたと考えることができます。
さて、いくら実存主義的立場をとる哲学者といえども、ここまででは、なんとも味気ない感覚を覚えてしまわれませんか?
でも、ここからが面白くなります。
★ダス・マン(Das Man)
「ダス・マン」とは、死と向き合うことなく没個性的に生きる人々のことを指します。人間は本来「現存在」なので、自分の生き方を自由に選ぶことができるはずです。しかし、ダス・マンは死を恐れるあまり、死から目を背け、没個性的に生きています。
現代風にたとえるなら、企業の中で上司の命令にただ従っている人は、自分がどうしたいかではなく、「上司がどう思うか」という判断基準で仕事をしています。ハイデガーは、技術革新や大衆文化によって多くの人が個性を失い、自分の本来の生き方とは異なる、他人に合わせた平均的な生き方をしてしまっていると主張しました。
★存在忘却の時代
「存在忘却の時代」とは、人々がダス・マンとなり、固有の存在の仕方を見失う時代のことを言います。存在忘却の時代では、あらゆる物や人が利用されるべき材料としてみなされてしまいます。
たとえば、化粧品を製造する企業は、自社の利益を上げる手段として、「綺麗になりたい」という人々に広告を配信し、化粧品の購入を促しますよね……。この時、人々は1つの企業の利益を上げるための材料として利用されているというのが、ハイデガーの捉え方です。たしかにその通りではあります……。
基本的に、「個人がどのように生きるべきか」に注目する哲学を「実存主義」と言います。「ダス・マン」や「存在忘却の時代」と表現したことは、ハイデガー自身が、「人々が没個性的になり、自分の存在の在り方を考えられていない」と感じていたからです。だからこそ、「個人が自分の本来の生き方を選ぶことを重視した」ということです。
いまの時代、SNSやYouTubeなどで、だれかがなにかを表現するところにつながっていき、それを多様性という言葉で表現するなら、多様な価値観やモノの見方が玉石混淆しています。
そこにどっぷり浸かって、それを個性的、多様性などと表現するとすれば、きっとハイデガーの怒りを買うことになるでしょうね……。
「これからの時代、〜を身につけなければ生きていけない」などという話を聞くと、なんとなく焦った気持ちになるものですが、その「○○」自体を「本当に自分がやりたいこと」なのか考えてみないといけませんね。なぜなら、それを身につけるために費やす時間は、あなたの人生そのものだからです。
なんとなく殺伐とした理屈が並べられているとの先入観を持っていたのですが、ハイデガーは、そうではなく個性や個人の尊厳を追求した哲学者だったのだと確信しました。
感謝
2024.06.17:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】神様に応援される人になる (※舩井勝仁執筆)
2024.06.10:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】「神様、ママを見つけたよ!」 (※佐野浩一執筆)
2024.06.03:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】宇宙(そら)の足跡 (※舩井勝仁執筆)
舩井 勝仁 (ふない かつひと)
株式会社船井本社 代表取締役社長 1964年大阪府生まれ。1988年(株)船井総合研究所入社。1998年同社常務取締役 同社の金融部門やIT部門の子会社である船井キャピタル(株)、(株)船井情報システムズの代表取締役に就任し、コンサルティングの周辺分野の開拓に努める。 2008年「競争や策略やだましあいのない新しい社会を築く」という父・舩井幸雄の思いに共鳴し、(株)船井本社の社長に就任。「有意の人」の集合意識で「ミロクの世」を創る勉強会「にんげんクラブ」を中心に活動を続けた。(※「にんげんクラブ」の活動は2024年3月末に終了) 著書に『生き方の原理を変えよう』(2010年 徳間書店)、『未来から考える新しい生き方』(2011年 海竜社)、『舩井幸雄が一番伝えたかった事』(2013年きれい・ねっと)、『チェンジ・マネー』(はせくらみゆき共著 2014年 きれい・ねっと)、『いのちの革命』(柴田久美子共著 2014年 きれい・ねっと)、『SAKIGAKE 新時代の扉を開く』(佐野浩一共著 2014年 きれい・ねっと)、『聖なる約束』(赤塚高仁共著 2014年 きれい・ねっと)、『失速する世界経済と日本を襲う円安インフレ』(朝倉慶共著 2014年11月 ビジネス社)、『智徳主義【まろUP!】で《日本経済の底上げ》は可能』(竹田和平、小川雅弘共著 2015年 ヒカルランド)、『日月神示的な生き方 大調和の「ミロクの世」を創る』(中矢伸一共著 2016年 きれい・ねっと)、『聖なる約束3 黙示を観る旅』(赤塚高仁共著 2016年 きれい・ねっと)、『お金は5次元の生き物です!』(はせくらみゆき共著 2016年 ヒカルランド)がある。 |
佐野 浩一(さの こういち) 株式会社本物研究所 代表取締役社長 株式会社51コラボレーションズ 代表取締役会長 公益財団法人舩井幸雄記念館 代表理事 ライフカラーカウンセラー認定協会 代表 1964年大阪府生まれ。関西学院大学法学部政治学科卒業後、英語教師として13年間、兵庫県の私立中高一貫校に奉職。2001年、(株)船井本社の前身である(株)船井事務所に入社し、(株)船井総合研究所に出向。舩井幸雄の直轄プロジェクトチームである会長特命室に配属。舩井幸雄がルール化した「人づくり法」の直伝を受け、人づくり研修「人財塾」として体系化し、その主幹を務め、各業界で活躍する人財を輩出した。 2003年4月、(株)本物研究所を設立、代表取締役社長に就任。商品、技術、生き方、人財育成における「本物」を研究開発し、広く啓蒙・普及活動を行う。また、2008年にはライフカラーカウンセラー認定協会を立ち上げ、2012年、(株)51 Dreams' Companyを設立し、学生向けに「人財塾」を再構成し、「幸学館カレッジ」を開校。館長をつとめる。2013年9月に(株)船井メディアの取締役社長CEOに就任した。 講演者としては、経営、人材育成、マーケティング、幸せ論、子育て、メンタルなど、多岐にわたる分野をカバーする。 著書に、『あなたにとって一番の幸せに気づく幸感力』(ごま書房新社)、『ズバリ船井流 人を育てる 自分を育てる』(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)、『私だけに教えてくれた船井幸雄のすべて』(成甲書房)、船井幸雄との共著『本物の法則』(ビジネス社)、『あなたの悩みを解決する魔法の杖』(総合法令出版)、『幸感力で「スイッチオン!」』(新日本文芸協会)がある。 |