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このページでは、舩井幸雄が(2014年1月19日の舩井幸雄の他界後は舩井勝仁が)いま一番皆様に知ってほしい情報をタイムリーにお伝えしていきます。
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2005年5月27日
生命をかけるべし

 最近、時々仕事で九州に行きます。JR九州の特急で九州内を移動すると、グリーン車の車内に“Please”(九州旅客鉄道株式会社発行)という旅のライブ情報誌がありました。その5月号の『九州ものしり学』の題名は「薩摩藩英国留学生」でした。
読んでみてびっくりしました。
 1863年(文久3年)の薩英戦争で、英艦に搭載されたアームストロング砲によって城下を焼き払われた薩摩藩は、その軍事力の差にびっくり、英国に留学生を送り、学ぼうと決心しました。それについて“Please”には、次のような概要説明が載っていました。

 1865年春、鹿児島県串木野沖を19名の若者を乗せて一艘(そう)の蒸気船が旅立って行った。
「薩摩藩英国留学生」
 名前を変え、国禁を破り、生命を賭して渡った異国の地で最先端の知識と情報を吸収した彼らは帰国後、さまざまな分野で維新後の日本の礎となった。

 出発の時の日記が残されているが、それを読むと彼らは「生命をかけて旅立ったようだ」と、ここには書かれています。
 もう少し“Please”の記事を紹介します。

 ここで一行の顔ぶれを見てみよう。正使は大目付の新納久脩(にいろひさのぶ)(34歳)で、帰国後は家老に就任し、藩政を担った人材である。副使は町田久成(まちだひさなり)(28歳)で、開成所掛(かいせいじょがかり)(学頭)という立場上、他の留学生14名の監督役を務めた。帰国後は東京国立博物館を創設したことで知られている。その他、随伴使節として寺島宗則(てらじまむねのり)(33歳)と五代友厚(29歳)、そして通訳の堀孝之(ほりたかゆき)(21歳)を加えて総勢19名である。
 一行は、各寄港地でガス灯や蒸気機関車に驚いたり、西洋人が人前で堂々とキスすることに驚嘆しながら、二ヵ月余りかけてイギリス南部のサウサンプトン港に入港した。
 ロンドン到着後、一行は大学への入学に備え語学の特訓に励んだが、鉄工所や農園などの視察なども精力的にこなしていることが分かる。フォトスタジオに記念写真を撮りに行ったことも記されており、これが冒頭に紹介した8名ずつ写った2枚の写真である。
 留学生たちはロンドン大学に入学し、それぞれの専門分野を学んだ。当時の学籍簿が今でも大学資料室に残っている。
 その間、寺島はイギリス外務省筋との外交交渉を行い、同国の対日政策を薩摩藩に有利な方向なへ導き、五代は産業視察や紡績機械の購入、さらには貿易会社「ベルギー商社」設立に向けて精力的に動いた。
 新納・町田・寺島・五代は国元(薩摩藩)にヨーロッパ情勢や留学の成果を逐一書き送っている。それらの情報は、倒幕を進める薩摩藩にとって、日本を取り巻く欧米の動向を分析する上で、極めて重要な情報となった。
 なお、留学生中最年少の長沢鼎(かなえ)(13歳)については、一人スコットランドのアバディーンにあるグラバーの実家に引き取られ、そこから地元の中学に通った。地元の新聞に成績優秀者として長沢の名前が掲載されており、真剣に勉学に励んだことが察せられる。
 留学生の大半は二年間ほどで帰国するが、森有礼などはその後アメリカへ渡り、明治初めまで見聞を広め近代的な知識や思想を学んだ。彼らの培った知的財産は、明治日本が近代化を進めるにあたって、あらゆる分野で極めて重要な役割を果すことになった。
 まず外交の面では、外務卿として不平等条約の改正に尽力した寺島宗則を筆頭に、鮫島尚信・中村博愛などがヨーロッパ外交に大きな足跡を残している。教育界では、初代文部大臣として教育制度の基礎を作った森有礼をはじめ、東京開成学校(後の東京大学)初代校長の畠山養成等が特筆される。
 生野銀山の開発に尽力した朝倉盛明やサッポロビールの創設に尽した村橋久成、大阪商工会議所を設立し初代会頭に就任した五代友厚などは、殖産興業の面で大きな功績を残している(転載ここまで)。

 ところで、この人たちが、どうしてこのような成果をあげえたのでしょうか。
 私は「生命がけだったから」だと思います。

 私は最近自分の仕事というか、生きざまに生命をかけると、人間はとんでもない力を発揮することを知りました。これが決め手のようです。
 現在は政治家も官僚も、大企業の役員や幹部も、ほとんどの人は自分の仕事に生命をかけていないように思えます。
 その点、中小企業のオーナー経営者は、もともと生命をかけざるを得ない仕事ですから、生命がけで、がんばっている人がいます。このような人は、すごい効果をあげています。
 私は船井総研という会社をつくってからは経営コンサルタントとして生命をかけて仕事に立ってきました。その結果は何千件のコンサルティングをしましたが、失敗がないのです。また船井総研の経営にも生命をかけて当ってきました。
 しかし、経営者として船井総研の子会社などの経営には、失敗しても致命傷にはならないようにはしてきましたが、決して生命をかけてきたとは言えませんし、それらの経営を生命をかける社長に委せたわけでもありませんでした。おかげでよく失敗をしました。
 こんなことにも気づかされたのが、この“Please”の文章でした。
人は自分の直面する何ごとにも「生命をかけて当るべし」です。私はこれからの人生をこのように生きようと思っています。
 どうぞ、皆さんも、どんなことにも生命をかけて取りくんでください。
                                               =以上=

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