トップが語る、「いま、伝えたいこと」
先週に題名が決まったのですが、少年少女向けの私の著作が6月26日にマガジンハウスから刊行されます。びっくりです。
題名は『13才からの(シンプルな)生き方哲学』です。もう脱稿しました。
その「はじめに」の文章の一部を紹介します。
はじめに 13歳前後の君たちへ
13歳というと、子ども時代から大人への一歩を踏み出しはじめる非常に多感な年頃だと思います。
じつは「13歳の人向けに、成功哲学の本を書いてください」とこの本の出版社であるマガジンハウスの村尾編集長からお話があったときには、正直に言うとびっくりしました。私は400冊くらい本を出していますが、いままでは大人向けの本しか書いたことがなかったからです。
私が13歳の頃は、ちょうど終戦の年でした。今とは違いすぎるほど貧しく激動の時代でした。そんな中で13歳を過ごした私と、今の時代に13歳であるあなたたちは、ずいぶん、生き方や考え方が違うだろうと思います。はっきり言うと、私にはいまの13歳の人たちが、どのような考えを持っているのかはわかりません。きっとあなたたちも、私が13歳の時どのような考えで日々を過ごしてきて、そしていまを過ごしているかは、想像もつかないと思います。
でも、それでよいのだろうと思います。人にはそれぞれ、役割や使命がありますが、みんな違うので、生まれてくる環境や育つ環境、そして個性や考え方は違って当然なのだろうと思います。その違った考え方が融合して、お互いのよいところを吸収し、人類としてのよりよい考え方が出来てくるのではないかと思うのです。
さて、そうはいっても、私は皆さんよりも長く生きていますから、よりよく生きるために知っておいたほうがよいことをたくさん知っています。そんな中でも、絶対に知っておいたほうがよいということだけを、13歳の人でもわかるようにシンプルにまとめてみようと思います。
ひとまず、13歳の人は私のことを知らないでしょうから、私の少年時代までの自己紹介をしたいと思います。
私は、船井幸雄という男性です。昭和8年(1933年)1月10日、大阪府下のいまの松原市で生まれました。今年で75歳になります。きっとあなたたちのおじいさんと同年代か、少し年上くらいでしょうか。私にも、上は大学生から下は1歳までの7人のかわいい孫たちがいます。
私の職業は、会社の経営者ですが経営コンサルタントという職業で生活してきました。経営コンサルトとは、わかりやすく言うと、いろいろな会社の社長さんたちに、経営のアドバイスをする仕事です。
(中略)
私の人生は、子どもの頃から、仕事ばかりの人生でした。人様がゴルフやカラオケなど、趣味や娯楽で楽しんでいる時間も、仕事をするか、世の中の構造や人間の正しいあり方などについての勉強をずっとしてきました。そのため、世の中がどのような成り立ちになっているのかとか、どのように生きるのが正しいのか、というようなことは人の何十倍、何百倍もわかるのですが、世の中で流行するテレビや映画や音楽などは、ほとんどわかりません。他人様から見ると、仕事と勉強ばかりの人生のようですが、私は私の人生を、それなりに楽しかったと思っていますし、今も幸せでとても楽しいと思っています。
(中略)
私が13歳くらいの頃はどのような時代だったのかを、私の通った小学校と中学校(高等学校)を例に出して少し紹介したいと思います。
昭和8年(1933年)1月10日 船井家の長男として生まれる
昭和12年(1937年)5月 文部省の出した「国体の本義」に基づく教育を受ける
※当時幼稚園などはなく、幼児教育は父母や近所の年配者などによって行なわれていた。
昭和14年(1939年)4月1日 大阪府中河内郡恵我村立尋常高等小学校尋常科入学
昭和16年(1941年)4月1日 同校は恵我村立国民学校初等科になる
12月 大東亜戦争はじまる
昭和20年(1945年)3月 同校卒業
昭和20年(1945年)4月1日 大阪府立富田林中学校入学
※3月13日の大阪空襲により、入学希望者約650人全員無試験にて入学(定員300人)。
8月15日、終戦。
終戦による学校制度改正により、大阪府立富田林高等学校付属中学校になる(富田林中学校と富田林高等女学校が、まず実質的に一体化。ついで抽選により二年生と三年生を両校に分離。一年生は入学させなかった。中学校は富田林高校、女学校は富田林西高校そして河南高校と改名される。中学三年生から男女共学になる)
大阪府立富田林西高等学校付属中学校に配属される
大阪府立河南高校付属中学校三年生に配属される
昭和23年(1948年)4月1日 大阪府立河南高等学校に入学
昭和26年(1951年)3月 大阪府立河南高等学校卒業
小学校と中学校の名前を連ねただけで、非常にややこしい経歴ですね。これは何も私がいろいろな学校を転校したというのではありません。当時は戦争と終戦による激動の時代だったため、制度の改正や、合併、分離などのために、ひとつの小学校に6年間行っただけなのに、名前が2回変わり、ひとつの中学校に6年間いただけなのに、そこが高校になり、名前が5回も変わったのです。
しかも変わったのは、学校の名前だけではありません。戦前と戦後で、今までの教育内容はガラリと180度変わりました。戦前には、「日本は世界でもっとも立派な国だ」と教えられていたのですが、戦後になると「日本は世界でもっともいいかげんな国だ」と教えられるようになりました。立派な国だ、と教えられていた頃は、自由がまったくない時代でしたが、いいかげんな国だ、と教えられた終戦後には、すごく自由になったと感じました。
とくに自由になったと感じたことは、男女が気楽に話ができるようになったことです。戦争が終るまでは、女学校の生徒とは、人前で話すことも固く禁じられていました。たとえ兄妹であっても、家の外ではほとんどしゃべれないくらいで、二両編成の電車に乗るのも、前の車両には女学校の生徒が乗り、後ろの車両には男子生徒が乗るという徹底ぶりでした。それが終戦後は、突然すべてが自由になりました。男女が同じ学校に通い、話ができるようになったのです。
当時とてもショックで印象に残っていることが、いくつかあります。
まず一つ目は、空襲の時のアメリカのグラマン戦闘機の機銃掃射のこわさです。
ものすごい音を立てながら、2メートルおきくらいに機銃弾を掃射してくるグラマンは、非常にこわい存在でした。このグラマンから逃げるときに私が学んだことは、まわりの人と同じ方向に逃げると撃たれるので、多くの人の逃げる逆の方向に逃げるということでした。
冷静に物事の状況を判断でき、的確な行動ができるかどうかは、当時の私たちにとっては生死にかかわる問題だったのです。
二つ目は、いばり続けた配属将校の存在です。
中学校には、校長先生よりも偉く、いばっている配属将校が必ず一人はいました。配属将校は何かあるとすぐに竹刀で人を殴り、生徒たちはいつも配属将校の存在を恐れていました。中でも嫌だったことは、私の通う中学校には、50メートルプールがあり5メートルもの高さの飛び込み台があったのですが、泳げない人もむりやり全員そこから飛び降りるよう命じられたことです。たとえ水中にとはいえ、泳げない人にとって、5メートルの高さから飛び込むことは、並たいていのことではありません。しかし、飛び込むのを躊躇すると竹刀で殴られ、突き落とされるので、いやいやながらも飛び込むのです。そのため、当時の生徒で泳げない人は一人もいないと思いますが、無理にやらされたので、水泳が好きだという人もあまりいないと思います。私もいまだに水泳は好きではありません。
三つ目は、日本の貧しさと戦後の占領軍の豊かさです。
「ぜいたくは敵だ!ほしがりません、勝つまでは」などを合言葉に、日本人は食べることも我慢して、アメリカを相手に戦争してきましたが、戦後のアメリカ軍の豊かさにはびっくりしました。こんなにも豊かさに差があれば、日本は勝てるわけがないじゃないか、と多くの日本人は驚きました。
四つ目は、GHQ(アメリカ占領軍)の将校が私に教えてくれた言葉です。
私の通っていた中学校は、鉄筋の近代的な建物だったため、戦後アメリカ軍が占領施設として使用しました。校舎の半分近くをアメリカ軍が使い、残りの半分をぎゅうぎゅうに押し込められた生徒たちが使っている状態でした。このときアメリカ軍のある将校から教えてもらったことは、その後の私の人生に非常に影響を与えました。その将校は、ある時親しくなった数人の生徒を家に招いてくれ、その時に「9 to 5パーソン(ナイン トゥ ファイブ パーソン)になってはいけないよ」と教えてくれたのです。
「9 to 5パーソン」とは、9時から5時までだけを、仕事をする時間だと割り切り、後は余暇を楽しむことに精を出す人間のことです。君たちがこれから偉くなり、日本がよい国になるためには、午前9時から午後5時までだけが仕事の時間だと思うのでなく、命がけで24時間仕事をしなさい、と言われました。これが「世界中の成功者の生き方だ」と教えてくれたのです。アメリカの占領政策に反する教えでしたが、彼はゆっくりと時間をかけて説明して、このことを納得させてくれたのです。多感な思春期の時代に、この大切な言葉を教えてくれた将校には、今でもとても感謝しています。
五つ目は、松下電器の創業者、松下幸之助さんの言葉です。
松下さんは、あるとき大阪府下の中学校の生徒会長を集めて、どんな生き方をすべきかを、講演会の形で、教えてくれました。当時、生徒会長をやっていた私は、講演もさることながらじつはパーティで出される食べ物を目当てにして、この会に参加したのですが、松下さんから聞いた話は、その後の私の考えを大きく変えました。
松下さんは「ツイている人になりたかったら、ツキのある人とつきあいなさい。人には、その人のもっともしてほしいことをしてあげなさい」と教えてくれたのです。
もっと多くの大事なことがありましたが、とくにこれら五つのエピソードは、私のその後の人格形成に、とても影響を与えてくれたと思っています(転載ここまで)。
いま、この本の反応をたのしみにしています。
皆さんにも私らの年輩の人たちの小中学時代を、少し考えてみてほしいので、あえてここへ転載しました。よろしく。
=以上=
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