船井幸雄グループ社員の、日々もの思い、考へる

このページは、船井本社グループスタッフによるコラムページです。 「これからは“本音”で生きるのがよい。そのためには“本物の人間”になることが大事」という舩井幸雄の思想のもと、このページでは、社員が“本物の人間”になることを目指し、毎日の生活を送る中で感じていること、皆さまに伝えたいことなどを“本音ベース”で語っていきます。

書:佐野浩一
船井幸雄グループ社員の日々もの思ひ、考へる あの社員の一日を公開!
歴史は続くよどこまでも
2011.8.1(Mon)
社名:イリアール(株)
名前:【匿名】

日本最古の正史(=公式に編集された歴史書)。全30巻。初代天皇、神武天皇から(天武天皇の妻の)持統天皇までを記載。

天武天皇(〜686年)。125人の天皇の中で、生年が不明という謎の天皇。先代・天智天皇の弟とされるが、「違う」という説もある。

 私は大の歴史好きです。特に日本史が好きで、ここ「社員コラム」では毎回歴史にちなんだ内容を書かせていただいています。
 というわけで、今回は「天皇(家)」をテーマに書きたいと思います。
 副題は、「なぜ、天皇家は現代まで続くことができたのか?」です。

 巷では「天皇」と言うと、どこか政治的なニオイがする場合がありますが、これから書く内容は、純粋に「歴史好き」から見た天皇という意味で、深い意味はありません。「そういう見方もあるのか」と楽しんでいただけたら幸いです。

              ◆   ◇   ◇

 天皇は、もともと「大王(おおきみ)」と呼ばれ、大和朝廷ができてから「天皇」に変わりました。
 想像力を働かせてみれば、この頃の「テンノウ」は、まだまだ現代の平成天皇のように人望や尊敬を集めた存在ではなく、大勢いる有力者のボスに過ぎませんでした。おそらく、まわりには「なんだアイツ、勝手に『テンノウ』とか言って!エラソーに」と、快く思っていない者がいたことでしょう。

 その天皇家を襲った初めてのピンチが、蘇我(そが)氏の台頭です。
 一説では蘇我氏は「(朝鮮半島からの)渡来人系」と言われ、朝廷内では、天皇家にせまる勢いで権勢をふるっていました。おそらく蘇我氏は、「テンノウ家ではなく、オレが朝廷を牛耳ってやる!」などと野心を抱いていたのでしょうか。
 つまり、この頃の天皇家は「場合によっては、他の者(家)に取って代わられる」存在だったというわけです。

 それに対して当時の天皇家は、実力でピンチを切り抜けました。蘇我氏を実力で滅ぼしたのです(大化の改新(645年))です。
 ちなみに、ここで「実力で」と敢えて書いたのは、この後の時代では、天皇家はしだいに「実力」を失っていきます。それにもかかわらず、天皇家は時代の荒波の中で揉まれながらも、滅亡することなく、生き残っていくのです(ちなみに今回の副題は、ここにかかっています)。

 ピンチを切り抜けた当時の天皇家の人々は、「油断しちゃダメだ。このままだと、いつかは天皇家に取って代わる者(家)が登場する」と危機感を抱いたことでしょう。
 そこで、「天皇家は、他の者(家)に取って変わることができない存在」と、天下に知らしめるために作られたのが「日本書紀」です(720年)。

                     ◇   ◆   ◇

 当時は文字の読み書きができる人がとても少なかった上に、流通している本はすべて写本。テレビや新聞もありませんから、人から「これは勅命で編集されたもの」と紹介されたり、先生に教えられたりすれば、しだいに「そうなんだ」と広まっていったのではないでしょうか。

 ここからは余談ですが、興味深いお話を。
 そもそも日本書紀を「作れ」と命令した天武(てんむ)天皇自身が、その即位に疑問符がつく、ちょっと怪しい人。
 なぜなら天武天皇は、先代・天智(てんじ)天皇の「実弟」とされるものの、本来の皇位継承者であった大友皇子(天智天皇の息子)を殺して即位した人物だからです(「実弟」すら怪しいという説もあります)。
 逆を言えば、だからこそ「私は天皇だ。天皇家は素晴らしいんだ!」ということを、わざわざ主張しなければならなかった。日本書紀のようなものを作る必要があった、と言えます。

 しかも殺された大友皇子、実は殺される前に「すでに皇位に就いていた」と言われています。
 そうなると天武天皇、――当時は大海人皇子(おおあまの・みこ)でしたが――と大友皇子との「皇子同士の皇位継承争い」ではなく、天皇に対する「反逆」になります。 当然、天武天皇が「作れ」と命令した日本書紀に、真実が書かれることはなく、大友皇子は「皇子」のままとなっています。

 しかし、この件について現代の天皇家は、大友皇子は「即位していた」説に立ち、彼に弘文(こうぶん)天皇と諡号(しごう=崩御した天皇に贈られる名前)を与えています。したがって平成天皇は、弘文天皇を入れて125代目とカウントされています。

                     ◇   ◇   ◆

 ――こうやって歴史を振り返ってみますと、私たちは「歴史」をドラマや映画、または小説の中の出来事として眺めていますが、ある事実が、「実は1000年も2000年も昔から続いていること」ということを知ったとき、何とも言いようのない不思議な気持ちになります。
 自分の祖父母の父母(つまり曾祖父母)くらいまでは、具体的に何をしていたのか、どんな生活をしていたのか…といったことが想像できますが、それより昔になると「自分とのつながり」がしだいに希薄になって、想像しにくくなります。
 しかし、自分とつながった祖先が、100年も、1000年も、2000年も昔に、確実に存在していたのです。

 天皇家は、まさにその最たるものであって、こうして書き始めたはいいですが、書きたい内容がいっぱいありすぎてしまって、1回で収めきれません。
 大変申し訳ありませんが、「なぜ、天皇家は現代まで続くことができたのか?」につきましては、次回以降に、その続きを書かせていただきたいと思います。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


1周目:「一語一句、気持ちを込めて文字を綴る」
2周目:「新燃岳に想う、20世紀最大の噴火・ピナツボ火山」
3周目:「わたし流 歴史・時代の眺め方」
4周目:「歴史は繰り返す? 実はニッポン人はお金にルーズ?」

バックナンバー
バックナンバー
2024年
2024.112024.102024.092024.082024.072024.062024.052024.042024.032024.022024.01
2023年
2023.122023.112023.102023.092023.082023.072023.062023.052023.042023.032023.022023.01
2022年
2022.122022.112022.102022.092022.082022.072022.062022.052022.042022.032022.022022.01
2021年
2021.122021.112021.102021.092021.082021.072021.062021.052021.042021.032021.022021.01
2020年
2020.122020.112020.102020.092020.082020.072020.062020.052020.042020.032020.022020.01
2019年
2019.122019.112019.102019.092019.082019.072019.062019.052019.042019.032019.022019.01
2018年
2018.122018.112018.102018.092018.082018.072018.062018.052018.042018.032018.022018.01
2017年
2017.122017.112017.102017.092017.082017.072017.062017.052017.042017.032017.022017.01
2016年
2016.122016.112016.102016.092016.082016.072016.062016.052016.042016.032016.022016.01
2015年
2015.122015.112015.102015.092015.082015.072015.062015.052015.042015.032015.022015.01
2014年
2014.122014.112014.102014.092014.082014.072014.062014.052014.042014.032014.022014.01
2013年
2013.122013.112013.102013.092013.082013.072013.062013.052013.042013.032013.022013.01
2012年
2012.122012.112012.102012.092012.082012.072012.062012.052012.042012.032012.022012.01
2011年
2011.122011.112011.102011.09 ・2011.08 ・2011.072011.062011.052011.042011.032011.022011.01

数霊REIWA公式サイト 佐野浩一 本物研究所 本物研究所Next C nano(ネクストシーナノ) 成功塾説法 舩井幸雄動画プレゼント 高島康司先生の「日本と世界の経済、金融を大予測」 メールマガジン登録 舩井メールクラブ 佐野浩一note