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トップが語る、「いま、伝えたいこと」

このページでは、舩井幸雄が(2014年1月19日の舩井幸雄の他界後は舩井勝仁が)いま一番皆様に知ってほしい情報をタイムリーにお伝えしていきます。
毎週月曜日定期更新
2014年9月22日
納骨して考えたこと (※舩井勝仁執筆)

 9月の半ばに父の納骨を済ませてきました。
 母と兄弟とその配偶者だけで、僧侶も呼ばない簡素な納骨でした。
 家を出る前に、父の部屋やリビングなど、父の生活していた空間をお骨を持って見て
きました。お墓は大阪の田舎にもありますが、熱海の山の上の霊園(日金山霊園)に
新しくお墓を作りました。そして分骨をしました。
 父の好きだった熱海の海が見下ろせるお墓で、喜んでいることと思います。

 新刊の拙著『いのちの革命』(きれい・ねっと)でも少々触れましたが、死の起源を探るならば、一つの引用として旧約聖書の『創世記』第3章をあげることができます。エデンの園の禁断の木の実を食べたために人間は死ななければならないことになったのです。過失か失敗か、神の命令に背いたためか、何らかの理由で、人間が死ななければならないことになった……。このような説話は世界各地にきわめて多く存在します。

 死に対する恐怖と驚異において、世界的に広い説話の分布から見てみると、古代人や未開人に共通する一つの考え方が明らかになります。
 本来ならば人間は死ぬはずがない。死ぬというのは、そこに何か不自然な力が加わってきたからに違いない。言い換えると、死ぬはずのない人間が死ぬ理由を明らかにされなければならなかったのです。そのための神話や物語がたくさんあります。古代から現代の私たちの心のなかにも、そのような遺伝子的、死に対する考え方が何処かに住みついているのではないでしょうか。“死ということはどこまでも不自然な現象”だという基本的な考え方です。
 さらに付言するならば、古代人や未開人にとっては、自然死ということはまず考えられなかったのです。個々の死については、それぞれの理由を明らかにしなければならなかったのです。一人が死ぬということには、何らかの力がそこに加えられたにちがいない。落雷などの天災による死はもちろん、我々が自然死と認めるような場合でさえも、彼らはそのように考えたのです。人間の死を引き起こす力を持つものは、神か精霊かまたは死霊かもしれない。あるいは魔法使いかもしれない……などと考えました。

 可見の世界と不可見の世界の区別が必ずしも明確でない彼らにとって、目に見えない力に対する恐怖はきわめて大きかったのです。そのような目に見えない『犯人』を探し出すために“占い”の方法がいろいろ考え出され、『犯人』と認められたものは否応なしに処刑されたのです。このようなことは、未開社会のみに限ったことではなく、文明社会でも死者の霊が下手人(げしにん)を告げて仇をうってくれと頼むと信ぜられていました。
 一般に人々は、殺害のほかに呪詛による死を恐れていました。同時にその『犯人』を見出して処罰することは、後に残ったものの神聖な義務でもあったのです。このような例は現在でも、シベリア、オーストラリア、アフリカ等の各地に見られます。またローマのカエサル時代のガリア人の間でも、目に見えない殺人の犯人として魔女たちが火刑に処せられたことが知られています。

 死によって従来の秩序と均衡が破られ、その平常と安寧を呼び込むために、意識的に様々な作法が儀礼として生み出されました。いわゆる世界の隅々に見られる『死者儀礼』です。
 このような時期に不遜な戯言とお叱りを受けるかも知れませんが、人間が死について考えることは、“想像することができる”という人間の特性なのでしょう。想像とは、自分が直接経験していないけれども、思いを巡らすことのできる能力を意味します。

 これはあくまでも人間の想像でしかありませんが、犬や猫には自分の死を想像することができないはずです。しかし、虫や鳥や魚など、どんな生き物でも、人間が捕まえようとすると逃げてしまいます。彼らは捕まえられたら殺されてしまうことが解かっているのでしょうか。もしかして、我々の先祖が数百万年前から生き延びてきた過程において、彼らを捕まえ食べて来た現実が、彼らの遺伝子に恐怖として印されているからかも知れません。
 しかし、その根底には“生き続けたいという生き物の本能”があるのだと思います。
 人間も死に対して恐怖を抱くのは、ある意味では生き続けたいという本能の表れではないでしょうか。自分が死を経験したことがないのに、死ぬのは恐いと思うのは考えてみると不思議な感じがします。第三者の死を看取ることで、ある種の恐怖を抱くことは当然でしょう。そして人の遺伝子にも恐怖と悲しみの心として記憶されていることも否定できないでしょう。
 たしかに死は、生きているという今の状態とはまったく異なる世界へ入ってしまうことです。しかし生の反対は、はたして本当に死なのでしょうか。『時間』という軸で見れば、生の反対は『死後』であって、死というのは“生と死後の世界を隔てる分岐点”です。つまり死は、この世に生を受けた以上は誰でも必ず通る『通過地点』なのです。肉体は消滅しても『魂とその人の思いやり』は永遠に生き続けます。それぞれの心に抱かれて。その人の『魂と思いやり』に私たちも抱かれているのです。

 「看取りの時に、その人をずっと抱いていてあげてください」……、『いのちの革命』を一緒に出版させていただいた柴田久美子先生のお考えですが、こうして毎週「死生観」について書いていると、私なりの本質的な見解が出ました。まだまだ、「死」についてはわからないことだらけですが、これからも逃げないで向き合い、考え続けていきたいと思っています。

 さて、夏の気配が消え、秋の訪れを肌で感じると、11月の舩井☆SAKIGAKEフォー
ラム
がいよいよ迫ってくることを実感しています。このフォーラムがまだ構想段階の頃、父が私の夢枕に立ちまして「今後、お前主導のイベントは、これまで我が社がお世話になってきた先生に頼るな」と語り掛けてきました。

 このメッセージの解釈はさまざまにできると思います。夢枕と一言にいっても、自分自身のアンカーに打ち込まれた想いが父の姿を借りて、伝わってきていると考えると、私にとっては決してスルーできない伝言でした。
 フォーラムのカリキュラムを決める際にはいろいろ考えましたが、父の言葉に逆らってまで、父の代からお世話になってきた経済評論家の朝倉慶先生にはご登壇していただくことにしました。やはりフォーラムに来ていただく方に「経済の分野は超プロの方から手の切れるような新鮮な情報と気づきをプレゼントしたい」という気持ちを1番に大切にしたかったからです。
 朝倉先生は、このフォーラム参加者限定のコアでレアなお話を準備してくださっているようです。お楽しみに。チケット申し込みの詳細はこちらです。
 その、朝倉慶先生との共著の出版の準備を進めています。安倍政権の経済政策がうまくいっていて、このところ経済本が売れないようですが、出版社の社長の勘では、秋には大きな経済的なインパクトのある事柄が起こるのかもしれないと感じているようです。晩年の父は朝倉先生の経済の見方を一番参考にしていました。私は朝倉先生や父とも違う感覚を持っていますが、その辺りが明らかになる本にしたいと思っています。
 詳しいことは、新刊のご紹介のタイミングでまた改めて書かせていただこうと思います。
                                            =以上=

バックナンバー
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2014.09.15:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】女性の直感力 (※舩井勝仁執筆)
2014.09.08:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】いのちの革命(続き) (※舩井勝仁執筆)
2014.09.01:【いま 一番知らせたいこと 、言いたいこと】いのちの革命 (※舩井勝仁執筆)
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