加治将一の精神スペース
このページは、作家でセラピストの加治将一さんによるコラムページです。加治さんは、『龍馬の黒幕』『幕末 維新の暗号』『舞い降りた天皇』『失われたミカドの秘紋』(すべて祥伝社)などの歴史4部作が大反響を呼ぶ一方で、『アルトリ岬』(PHP)や『大僧正とセラピストが人間の大難問に挑む』(ビジネス社)などのカウンセリング関連の著書も好評です。そんな加治さんが、日々の生活で感じること、皆さまにお伝えしたいことなどを書き綴っていきます。
毎年恒例のニセコでスキー。
三泊四日。
ゴンドラで登って振り返ると、抜けるような青空にくっきりと浮かぶ羊蹄山(ようていざん)。
「ヤッホー、今年も来たぞー、元気でいたかー」
と思わず叫びます。
スキー、温泉、旨い飯。
幸せすぎてなんだか怖い。
無事滑り終え、ギブスも付けずにいったん東京に帰る。
翌日向かったのは、日本最西端に位置する沖縄でありました。
「暑っ!」
ニセコとの温度差は、軽ーく30度。
なぜ沖縄か?
はい、縁あって横浜ベイスターズのキャンプなのですね。
当たり前ですが、目的は強化合宿の合流ではありません。
見学というか、取材というか、その辺ははなはだ曖昧ではありますが、言ってみればプロ野球キャンプとはいかなるものか? の体験見学です。
沖縄は、15年ぶりとなる二度目の訪問。
着いた夜、泡盛は呑めないので、あらかじめ送ってもらったシャンペンを沖縄料理店に持ち込むという店側では「沖縄料理にシャンペンかい」的前代未聞の乱暴狼藉をはたらいたのですが、しかしながら、なかなかいけました。
眠ると翌日です。
考えれば不思議なことで、眠っているだけで向こうから翌日がやってくるってぇのですから便利なものです。
曇りのち雨という公式天気予報をくつがえし、やはり快晴。お天気オヤジの面目躍如であります。
場所は那覇市から、タクシーでほぼ20分の宜野湾。
朝10時、海辺に造られた球場に、ハッピー・ラッキー・ウォークで行くと、すでにベース・ランニングが始まっておりました。
地響きを立て、次々とベースを蹴って走る様は、まるでライオンの群れでありまして、さすがは選りすぐりのトップ・アスリートたち。
シートノック、バッティング練習……次々と消化されてゆくメニュー、しばらく見ていると実によく考えられていることに気づく。
あらゆることを想定し、身体で覚えさせるのが目的ですが、しかも選手が飽きないように工夫がなされ、効率よく身体を仕上げて行くのです。
関係者に促されてピッチャーの練習場、別名ブルペンに移動します。
ブルペンはbullpenと書きます。
bullは牛、penは囲で、牛を囲う柵のことなのですが、ピッチャーを牛に見立てたのか、それとも単に牛の囲いに似ていたからそう言ったのかは知りませんが、横一列6人のピッチャーがずらりと並んでの投球練習です。
我々はキャッチャーの後ろに陣取ります。
キャッチャーの背後に張られたネット裏から眺めるのですが、むろん入れるのは関係者だけで、キャンプ見学の一般客は垂涎の眼差しで我々を眺めます。
そう、絶好のポジションでありまして、ごめんなさいです。
唸りを立てたボールがミットに吸い込まれる。
「バシッ!」
眼にも止まらぬ剛速球。
しばらくすると、ボールが眼に止まってきまして、身の程知らずといいますか、ふと打ってみたい、マスクを付けてあのボールを受けてみたい、という衝動にかられ、関係者にはがい締めで止められます。
一番左端は、浜の番長こと三浦投手でありました。
今年で御歳40。ところが、なんのなんの球威は衰えを知らず「今年も行けそうだな」などと知ったふうなことを球団関係者と語していると、中畑監督に話しかけられる。
「これどうぞ」
笑顔で差し出したのは、ボールです。
「ソトがたった今投げていた球なんですが、すれ違いざまにポンとくれたので、どうぞ」
ソトというのは、ベイスターズを今年から背負って立つという期待の投手です。
「めったにないことですから、あとでソトにサインをしてもらったらいいですよ」
「それは、それは……」
と恐縮しながら受け取ります。
ラッキー! 幸せ過ぎてなんだか怖い。
途中、みのもんた氏のテレビ取材訪問があり、元西鉄ライオンズの東尾監督の訪問、さらには掛布とモノマネ・タレントの松村という異色コンビの陣中見舞いなどがあり、野球キャンプ地には随分いろいろな人が来るものだなあと思いながら、丸二日間の見学を無事終えたしだいであります。
沖縄で思ったこと
空港に向かう前に、行きたいところが一ヵ所ありました。
琉球国の首里(しゅり)城です。
行ったのですが腰を抜かすほど驚いたのは、解説文の数々でした。
琉球国は、1429年から1872年まで存在した王朝です。
しかしその間、ずっと明と清の冊封を受けている独立国として書かれているのです。
冊封というのは、早い話が上納をしてくれれば守ってやる、といった親分子分の盃みたいなものです。
それはその通りなのですが、日本との関係はほとんど書かれていないことに驚いたのです。
そっけなく「薩摩の侵略を受けた」という一行にとどまり、他は明や清の皇帝から龍を賜ったとか、とにかくシナ、シナ、シナの一色で、日本などてんで現れない。
まるで沖縄はずっとシナの領域であって、日本は無関係だと言わんばかりの姿勢です。
しかも、耳にしたガイドさんの解説も仰天しごくでありました。
なんと黒船ペリーの沖縄寄港の目的は、占領だったというのです。
こうなれば明らかな反日、反米です。
しかしこれで最近のシナのデカイ態度の原因が、なんとなく掴めたような気がします。
尖閣だけではなく、その勢いをもって沖縄だって自国領土であるなどと言い始めたのも、沖縄本土にそれを支持する勢力がいるからなのです。
「南京事件」と「慰安婦問題」で、これほど日本が窮地に立たされたのは、単に日本外務省チャイナ・スクールと呼吸を合わせただけではなく、率先して騒ぐ旧社会党と自民党左派という存在が日本にあってこそです。
それと同じ理屈で、沖縄が古来シナの領土であったかのごとく振る舞う獅子身中の虫が日本国内に巣作っているからこそ、シナが勢いづくのです。
では歴史の真実はどうか?
琉球国は1400年あたりに成立しています。
で、明と清の冊封を受けていたのは確かです。
しかし1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に食料を提供したのはまぎれもなく琉球でありまして、日本軍の兵站(へいたん)の一部を担っているのです。
朝鮮出兵の狙いは明です。
秀吉が、朝鮮背後の明を討つべく、その前哨戦としてスケジュールしたものですから、本当に琉球国が明の子分なら、日本を助太刀するなどできないはずです。
つまりあとで詳しく述べますが、琉球国の冊封は表向きのポーズだけなのですよ。
ところが事件が起ります。
1602年、伊達藩領内に琉球船が漂着。
徳川家康は彼らを無事送り返したのですが、なしのツブテ。ムカついた幕府は、謝恩使の派遣と日明貿易の仲介を琉球王国に繰り返し要求します。
が、無視。
ちょっとは礼をわきまえろとばかりに、幕府は薩摩藩に琉球征伐を命じたわけです。
薩摩兵3000名が沖縄上陸。
1609年3月26日のことですが、4日で首里城まで到達、琉球側が4000の兵で向かえ討ちますが、薩摩軍の砲撃にあっさりと降伏し、4月5日には首里城開城とあいなったわけです。
尚寧王を捕虜として薩摩に連行、ただちに検地が行われて琉球国は11万3千石と弾きだされ、これ以降、琉球国は薩摩藩の従属国となります。
具体的には薩摩への貢納と「江戸上り」と呼ばれる江戸幕府への「謝恩使節」の定期的な派遣の義務を負います。
使節団派遣は1634年から1850年まで、18回。
こう述べると反論する人がいます。
「琉球国は薩摩藩の属国ではない。実際、沖縄領地は薩摩召し上げとならずに、琉球国として独立していたではないか、だから国としてこれまでどおり親分を清と仰いで朝貢し、冊封を受け続けていたのだ」と。
歴史を読めない人は、どこにでもいるものです。
つまり、琉球国の冊封はポーズなのです。
シナの方もほとんどボーズですから、薩摩軍が琉球国を攻めても無関心どころか、抗議すらした形跡はない。
なぜ冊封が続けられたのか?
薩摩藩が命じたからです。
薩摩藩は、以前より琉球貿易でたっぷりと潤っていました。
しかし日本は鎖国国家だから密貿易です。
琉球国を薩摩藩が摂取すれば公然たる薩摩の領地と化し、鎖国せねばなりません。
かといって、琉球国を幕府に献上しても幕府が自分の天領なんぞにしてしまえば、これまた琉球からの利益はストップします。
したがって、薩摩藩としては清の冊封国のまま、表向き独立国としておく方がぜんぜん得なのですね。
実際、薩摩は琉球密貿易で石高をはるかにしのぐ力をつけて、倒幕の資金としたわけです。
では民族的にはどうか?
最近の遺伝子研究では、沖縄県民と本州人の祖先は同じだというのがほぼ確実視されております。
言葉も数多くの名詞は共通していますね。
話し言葉が異なっているのは、交通が永い間途絶えていたのが原因で、多くの考古学者は10世紀前後に九州南部の人間が、海を渡って南下し、住みついたという説をとっています。
12世紀ころから農民も渡って稲作中心の農耕社会に移行、日本や大陸との交易もさかんになります。
むろん中継貿易で、日本と大陸とを結んでおりました。
1265年に日本の僧が伝えたという平仮名が導入され、文書全般に用いられるようになります。
1451年天照大神を日本から招き「長寿宮」を建立。
つづいて八社が建ちます。
1494年には、王家の菩提寺として鎌倉円覚寺を模した、その名も円覚寺が建立されており、文化的にも経済的にも、日本の圏内であることは疑う余地はありません。
しかしながら戦後、左翼勢力が強くなり1948年、円覚寺の跡地に琉球大学の教員宿舎が建てられ、1965年には、こともあろうに基壇や石畳などの遺構のすべて破壊、もしくは埋め込んで、上に琉球大学のグランドを建設するという、一部日本との関係史の消滅行為がありました。
歴史の消滅などあってはならぬことです。
首里城のへんてこな解説文が、見直される日の来ることを願って、加治は締め切りの待つ東京の我が家へと帰ったのであります。
幸せを祈りつつ……。
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★『ビジュアル版 幕末 維新の暗号』(祥伝社)が8月1日に発売されました。
『幕末 維新の暗号』と『舞い降りた天皇』と『失われたミカドの秘紋』と『西郷の貌』(すべて祥伝社)を全部まとめた写真集です。
この写真集は、支配者の日本史偽装を許さないぞ、今後とも真実を暴いてゆくぞという私の確固たる意思表示であります。
各方面からの圧力がひどく、潰れそうです。どうか1冊でも10冊でも買って応援してください。よろしくお願いします。
★『カネはアンティーク・コインにぶちこめ!』(東洋経済新報社)は、おかげさまで三刷りになりました。ありがとうございます。
この本でコインが売れ、日本中のコイン・ディーラーはコイン品薄に陥ったとか。コイン関係者の嬉しい悲鳴が聞こえてくるようですが、その割にはこっちに足を向けて寝ているらしいのです(笑)。
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作家・セラピスト。1948年札幌市生まれ。1978年より15年間、ロサンゼルスで不動産関係の業務に従事し、帰国後、執筆活動に入る。ベストセラー『企業再生屋が書いた 借りたカネは返すな!』(アスキー)、評伝『アントニオ猪木の謎』、サスペンス小説『借金狩り』、フリーメーソンの実像に迫った『石の扉』(以上三作は新潮社)など多数の著作を発表。『龍馬の黒幕』『幕末 維新の暗号』、『舞い降りた天皇』『失われたミカドの秘紋』(すべて祥伝社)の歴史4部作は大反響を巻き起こし、シリーズ 50万部の売上げ更新中である。その他、カウンセリング小説『アルトリ岬』(2008年 PHP)や『大僧正とセラピストが人間の大難問に挑む』(2010年 ビジネス社)などがある。
2011年4月に『陰謀の天皇金貨』(祥伝社刊)を、2012年1月に『倒幕の紋章』(PHP文芸文庫)を文庫版として発売。2012年2月に『西郷の貌(かお)』(祥伝社刊)を、2012年4月に新刊『カネはアンティーク・コインにぶちこめ!』(東洋経済新報社)を発売。
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