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みんなでひとつ命を生きていく〜宮ぷーこころの架橋プロジェクトから〜

このページは、特別支援学校教諭で、作家でもある「かっこちゃん」こと山元加津子さんによるコラムページです。
かっこちゃんは障害を持った子どもたちと、かけがえのない一人の友達として触れ合い続けています。その様子は『1/4の奇跡』という映画にもなりました。このコラムでは、かっこちゃんの同僚で、2009年2月に突然脳幹出血で倒れ、奇跡的に命をつないだ宮田俊也さん(通称・宮ぷー)との触れ合いの様子を中心にお届けします。

2012.02.20(第15回)
1月27日は亡くなった父の誕生日でした

 1月27日は亡くなった父の誕生日でした。そんな日に、学校の生徒さんのお一人が、授業中に、「心配なことがいっぱい」と言って泣き出しました。何が心配? と聴いたら、大好きなお母さんや大好きな家族や、おうむちゃんが死んでしまわないかと思うと心配でいられないと言って泣きました。とりたててご病気とかそういうわけではないのです。ただ、心配なのです。私も思わず泣けました。よくわかります。死んで終わりでないと私はわかっているつもりだけど、それでも、心配。そのお子さんの気持ちがせつなくて泣けました。
 父が亡くなってから、父の川柳の本を作ったのですが、その本の中に私が書いた文章です。3年前に書いた文章なのです。

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 大好きな父が、亡くなりました。あまりに急なことでした。最後の最後まで、すばらしい父そのままだったなあという思いが、時間が経つにつれ、だんだんと大きくなります。
 父の祖父は前田藩の家老である本多家に仕えていました。明治になり、長男ではなかった父の父は、新天地を求めて韓国へ渡ることとなりました。父は、八人兄弟の末っ子として韓国で生まれ、戦争後、父の父母が生まれ育った金沢に家族で戻ってきたのです。
 新聞社に勤めることになり、母と出会い、双子の私たちを大切に可愛がって育ててくれました。まだそれほどカメラのない時代に、毎日のように写した私たちの白黒の写真がたくさん残っています。決して裕福ではない中で、スキーや釣りや旅行やコンサートなどによく連れていってくれたり、話をよく聞いてくれたりする父でもありました。私が小さかったころを思い出すたび、やはり、そばにはいつも父と母のやさしい笑顔があったと思います。
 新聞社に定年まで勤め、それからは、新聞社にいるときからずっと続けていた川柳や、スポーツを一生懸命しました。父はとても器用で何事にも一生懸命だったと思います。クラシックのレコードをいつも書斎でかけ、そして、本を読み、コーヒーの豆をひいて飲んだり、若い時代には、自分で作ったパイプで刻みたばこをたしなんでいたこともありました。
 川柳では、たくさんの方に助けていただきながら、全国川柳協会の幹事をさせていただいておりました。また、全国でお話しをさせていただいたりしていたことは、父にとってどんなにうれしいことだったでしょう。六月にある大きな川柳の大会のことも、ずっと頭の中にあったようで、そのとき出版予定だった本作りに一生懸命でした。

 本当に急でした。朝、肺炎のために入院をし、その日の夕方は本や、川柳の月刊誌の仕事をしたいからと病院にパソコンを持ってきてと私に言いました。パソコンを持って戻り、病室に入ると、父は息をすることもつらそうで、横になることもできずにいました。けれども、それでも、パソコンや原稿に目を通していました。私はそんなに状態が悪いとは思わず、「お父さん、明日あさっては来れるけど、土曜日と日曜日は、講演会に呼んでいただいているから、東京に行かなくちゃいけないから、お見舞いに来れないの」と言うと、父は「かっこはたくさんの人に本当にお世話になっているなあ。講演会を開いてくださることは簡単なことじゃないから、どんなことがあっても、迷惑をかけるようなことがあったらいかん。もしもお父さんが悪くても、行かないといかんな」と言ってくれました。

 聞けば、間質性肺炎という病気だとのことで、あっという間に肺が真っ白になっていきました。どんなに苦しかったと思うのに、人工呼吸器をつけたあとも、意識はずっとはっきりしていて、手を握るとそのたびに、父はしっかりと私の手を握りかえしてくれました。今でもぎゅっと握ってくれた父の手の温かさが心に残っています。父はほとんど息ができなくなったために、人工呼吸器をつけられました。けれど、その呼吸器を父は何度も手で、あるいは、舌を押し出すようにしてはずそうとしました。父はもう、自分の命がもうすぐ、終わりを迎えることを知っていたのだと思います。人工呼吸器をつけたままでは話ができません。もしかしたら、父には私たちに伝えたいことがたくさんあったのかもしれません。父は目があうと、その目を大きく開いて、何かを伝えるために、私の顔をじっと見て、懸命に何度も首を振りました。
 父は夕方に急に「覚悟をきめなくちゃな」と言ったのです。優しい父でしたが、頑固で一徹な面もあり、また凜とした武士のような志を持っていた人だと思います。私たちはひょっとしたら、ステロイドというお薬が効くかもしれないと思って、どうしてもあきらめることができませんでした。「がんばって」「がんばって」という私や妹や母に応えるように、父は、本当にすごくがんばってくれたと思います。
 人工呼吸器をはずさなかったことが少し悔やまれますが、それでも母や私や妹が父と一晩時間をすごすことができて、そして、妹が「運命だね、しかたがないね」と言ったように、母も妹も、そして私も、父が亡くなることを受け止められるためにそれが必要な時間だったんだと父はきっと私たちを許してくれるに違いないと信じています。

 父はいつも本当に頑張り屋でした。いつもまっすぐで、そして温かい父の子供として生まれられたことをすごく誇りに思い、感謝しています。
 父の通夜や葬儀には驚くほどたくさんの方が来てくださいました。あらためて、父がどんなにたくさんの方に愛され、そして支えていただいて毎日を送っていたのだろうと感じました。父の死に顔はとてもやすらかでした。ずっと微笑んでいて、私たちは何度も父の顔を見て、「お父さんが笑っているよ」と言いあいました。父はたくさんの大好きな人に囲まれて、うれしいうれしいと言っているように思いました。

 亡くなるひと月ほど前の1月27日の父の誕生日に私は一遍の詩を、プレゼントに添えて送りました。

……
 お願い
 お父さん、お母さんには死んでほしくありません 息をしているものは、いつか死んでしまうんだと 何かのきっかけで、知ったとき その中に、お父さんとお母さん ふたりが入っていると気がついて「死なんといて」と声をあげて泣きました お父さん、あなたは大きな手で 私の顔をのぞき込んで「しょうがないんだよ」と 何度も頭をなでてくれたけど「いやや、いやや。死なんといて」私はやっぱり泣けました
 お菓子がほしい、おもちゃがほしい…そんなたわいもないことで泣いていた 昨日の子供のままの自分だったら どんなによかっただろうと あともどりのできないことにも、私は、ひどく泣けました あなたを失うことへの悲しみは今も変わることはありません お父さん、お母さんには死なないように願います 大人になって、心の中に大切な人が増えたとき それと同時に、死んでほしくない人がどんどん増えていきました お父さん、お母さん、私の大切な人に お願いいたします くれぐれも死なないように願います 死なないように願います そして 大切なあなたにはけっして死なないように願います
……

 父は電話で、「死なんといてというのは難しいけど、たとえ死んでも、お母さんのことやかっこ(私)のことやいっこ(妹)のことは、ずっと見とるし、守っとるわいや」と言ってくれました。父は私たちに宝物のような言葉を残してくれたと思います。そして、重い体がない今、きっと自由に、母のもと、私たちのところ、孫のところへ忙しく飛び回っていることでしょう。
 葬儀のあと、葬儀場の方が、私のところに来て、「変なことを言うようですが、どうしても申し上げたいことがあって」と声をかけてくださいました。なんだろうか、何か失敗でもあったのだろうかと少し身構えた私に、そのお若い男の方は「幸せという言葉は不適当かもしれませんが、こんなに幸せな感じがする式を、僕は初めては経験させていただきました」と言ってくださいました。母はそれを聞いてとてもうれしそうでした。それから、火葬場の方が、「お父様は生前どんなに穏やかな方だったのでしょうね。こんなににこやかな仏様は久しく出会っていませんでした」とも言ってくださったのです。ああ、父は今、きっと穏やかな気持ちで、大丈夫だよ、それでよかったんだよと言ってくれているんだと感じました。
 父が亡くなった日も、そして、家に戻って来た日も、驚くほど大きな丸い月がとてもとても美しい日でした。人はいつの日か必ず亡くなってしまう。それならば、こんなに素晴らしく美しい日に亡くなる事はうれしいなと思うほどの月でした。
 葬儀が終わった次の日、私は父との約束のとおりに東京へ出かけました。どんなことがあってもお世話になっている人に迷惑をかけてはいけないから、東京へ行きなさいと言っていた父が出かけさせてくれたのだと思いました。東京ではたくさんの方が待っていてくださって、温かい言葉をかけてくださいました。
 父が亡くなることが、もし運命で決まっていたのなら、この講演会も、父が亡くなって、元気をなくしているだろう私のために、用意してくれたものだったのかもしれません。
 通夜、葬儀を通してあんなにいいお天気だったのに、私が東京へ出かけたあと、日本中が嵐になりました。金沢では大雪となり、東京でも、北風が吹き荒れました。そして、最終の帰りの飛行機が運休になり、その日は東京へ急遽泊まることになりました。普段なら、次の日が学校で、どんなふうにしてでも、金沢へ帰ろうとしたはずですが、火曜日まで忌引きでお休みをいただいていました。もしかしたら、飛行機が飛ばなかったことにも意味があるのだろうか? とそんな不思議なことを思いました。
 急遽とったホテルの部屋にはお風呂がなくて、一番上の階に大浴場のあるホテルでした。誰もいない大きなお風呂に入って、大きな窓の外に広がる東京の夜景をみていたときに、その夜景に父の顔が急にうかび、それが紺色の空全体に広がっていきました。
 父の亡くなる2、3日前に、歌を作ったから聞いてと、下手な歌を歌いました。

 ♪「満天の星、空をめぐり、白鳥座の十字を目で追って
 ♪「僕たち宇宙に浮かんでると あなたはぽつりとつぶやく
 ♪「あなたと私 どうしてここに一緒にいられるのだろう
 ♪「銀河の流れ指でたどり、宇宙のひとつでいよう」♪

 父は「宇宙のひとつでいよう」と言うのがいいなあと言いました。
 ずっと川柳をしていたので、父は言葉が好きでした。私は、夜景の広がる窓の外を眺めながめていました。その時、とっても不思議なことを経験しました。満点の星の歌がオーケストラの演奏になって聞こえてきて、その音はどんどん大きくなっていきました。驚いて周りを見渡したけれど、大きなお風呂には私一人、私の作った曲を誰かが演奏しているはずもありません。涙が止まらなくなりました。そうだ、父は宇宙に広がっていったのだ、父は宇宙のひとつで私たちのそばにいてくれるのだと確信のように改めてそう思いました。そして飛行機が飛ばなかったのは、そのことを感じるためだったのだろうかとそう思ったのです。
 父が楽しみにしていた本を、ささやかですが、形にすることができました。読み返すと、私たちにとって、宝物の言葉がたくさん散りばめられています。宇宙となった父の空の下で、父の言葉をこれからの元気と勇気にしながら、父がしてきたように、家族を大切に、仲良く生きていきたいと思います。

・・・・・・・・・・

 父が亡くなってから、いっそう私は父をそばに感じるようになりました。母のことも、ずっと守ってくれているように思うのです。学校のお子さんも、大切な人を心に持ち、そうすると、いつかいなくなってしまうのじゃないかと不安になってしまうのだと思うのです。その不安はやっぱり簡単に消えるものではないけれど、でも、私はだいじょうぶ。だいじょうぶと言い続けたいなと思います。
 父の川柳の本は、http://blog.livedoor.jp/tatuokazeninatte/から読んでいただけます。


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『手をつなげば、あたたかい。』(サンマーク出版 山元加津子著 1,470円)



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Profile:山元 加津子(やまもと かつこ 愛称:かっこちゃん) 

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1957年 金沢市生まれ。エッセイスト。愛称かっこちゃん。石川県特別支援学校教諭。障害を持った子どもたちと、教師と生徒という関係ではなく、かけがえのない一人の友達としてふれあいを続けている。分け隔てなく、ありのままに受け入れる姿勢は、子どもたちの個性や長所を素晴らしく引き出している。そんな子どもたちの素敵さを多くの人に知ってもらおうと、教師をしながら国内外での講演・著作活動など多方面に活躍中。教師、主婦、作家、母親という4役を自然体でこなし、まわりの人に優しく慈しみをもって接する姿は、多くの人の感動を読んでいる。著書に『本当のことだから』『魔女・モナの物語』(両方とも三五館)、『きいちゃん』(アリス館)、『心の痛みを受けとめること』(PHPエディターズグループ)、『満月をきれいと僕は言えるぞ』(宮田俊也・山元加津子共著 三五館)などがある。2011年7月に新刊『ありがとうの花』(三五館)、2011年11月に『手をつなげば、あたたかい。』(サンマーク出版)を発売。

宮ぷーこころの架橋プロジェクト メルマガ登録:  http://www.mag2.com/m/0001012961.html
同プロジェクトから生まれたHP:http://ohanashi-daisuki.com/index.html
山元加津子さんHP「たんぽぽの仲間たち」:http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko/

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